『白く』について、『遠方より無へ』に作曲者による文章が載せられている。
左川ちかの詩に不思議な絶望がある。
失った声 向ふ側の音 見えない花
そして もう近くに居ない夏
しかしそれは艶冶な装いにくるまれ
ほとんど 誇り高きものの姿をして居る
微量の毒を含んだ刺が 老人を嗤い
少女らの指先に虚しい情感を植え
私を刺した
つい最近出版された『左川ちか全集』(書肆侃侃房 島田龍 編)にもこの文章が取り上げられていて、してみるとこの詩人に触れる入り口として三善晃の『白く』は小さくはないのかも知れない。この全集は、購入してみたが、軽く眺めただけにとどまっている。
それはともかく先の文章だが、取り上げられた詩の言葉、それらについて「不思議な絶望」と三善晃が言う意味が以前から気になっていた。このことについて少し考えてみたい。
『白く』の4つの詩については、改めて見返すと季節を示す言葉が多いように感じる。またはもう少し広げて時間に関わる、とも言えるだろう。
そのような言葉の一つとして、「他の一つのもの」に「ゼンマイのほぐれる音がする」があるのだが、これは「窓」の「向ふ側」のこととなっている。そのように意識すると、また三善晃の言葉と見比べると「Finale」では「老人」が「歌ふ」「反響」は「壁」に「つきあた」る。「壁」によって、「老人」となる将来と自分が隔てられている、と見ることができるように思われる。これらは、障壁があるように未来が断ち切られている、という共通性として捉えることができるだろう。またこのように見る場合、過ぎた季節は、もう2度と巡ってくることのない季節になる。「夏はもう近くにはゐなかった」と言ったならば、この先夏が来ることはない、と言う意味になる。未来がないことが前提にあるように見える、ということを三善晃は「不思議な絶望」と言ったのではないだろうか。
詩がこのように見えるのは、左川ちかが若くして死んでいることや、三善晃が自殺を考えていたことに引きずられているのだが、それでも現時点では自分はこのような印象を持っている。