『五月』と『いづかたに』

グリークラブ・ソングセレクションⅠ」に収録された2つの男声合唱曲。作曲家が作品として扱わなかった曲が変に愛唱されるようになるとすればあまり良いこととは思わないが、それはそれとして。

『五月』と『いづかたに』はともに、東京男声合唱団の1964年5月の演奏会で初演されたとのこと。前年の『三つの時刻』と合わせ、30歳になってからそれほど間がない時期に男声合唱曲が書かれ、さらにはそれらが全て隠された、という風にも見える。

早稲田大学コール・フリューゲルの演奏が youtube で公開されているが、とりあえず鳴らしてみた、くらいに聞こえて曲の印象を捉えるまでに行き着かない。むきになって繰り返し聴いていたが、それはそれで印象を恣意的に捏ね上げたようになり良くなかった。その程度の印象として言うと、この2曲には憧れのような色合いがあると思う。並べられた詩を見ると、『五月』と『いづかたに』とに「私」の詩と「君」の詩という関係があるように見える。「五月が来ないうちに」自殺する想像と「君」への思いが憧れとして通底する、そのような結びつきが2曲の間にあるように感じられる。さらに『いづかたに』の「君」は今ここにおらず、その姿が空想的、あるいは理想化されて語られているところから、すでに死んでいるのでは、と想像させられる。

「君」とは誰か、ということを考える。自分にとっては、このことは『三つの時刻』の返事の聞こえない鴉や『田園に死す』の「縊られて村を出てゆくもの」と繋がっている。つまるところは三善晃にとっての「わたしのなかの生者」(『弧の墜つるところ』)とは、ということになる。

これらを一連のものとするとき、この2曲の配置は『詩篇』までそのままつながっているとも考えられる。『詩篇』の最終部分は「私」が花も月も風も雪も投げ打って「君」を取り戻すことを願う、というようにテキストが構成されている。『五月』と『いづかたに』の問題はそこまで行き着かなければ決着せず、そこをもって決着とするしかないといったものだったのではないかと思う。