『私が歌う理由』(三宅悠太『二つの「理由」』)

 

三善晃の後に書いてこれか、と初手から批判的な気分があり良くないのだが、三宅悠太の『私が歌う理由』は近年動画などでもよく見かけるようになった。

楽譜の前書きがカワイ出版のサイトで読める。

三宅悠太:無伴奏混声合唱のための「二つの『理由』」 | 楽譜通販ならカワイ出版オンライン

「両詩に共通するテーマは、今この時代に私たち、人と人を繋いでくれるのではないかと思いを寄せながら、音を紡いだ作品です」とあり、そもそもの指向が三善の『私が歌う理由』とは逆になっている。

「私が歌う理由」の詩を改めて見てみる。「ずぶぬれで死んでゆく/いっぴきの仔猫」が実際に眼前にいるとした場合に「歌いたくなります」というのではさすがに異常者であって、つまりこの仔猫は仮構されたものということになる。その仮構がなぜ必要なのかと言えば、「私」の内に「歌う理由」があり、それを伝えようとするからだ。

ここから三善晃の場合、『地球へのバラード』の文脈もあるが、「歌う理由」があるために相手と繋がれない、ということを証明してしまう。指向が逆、と言ったのはこのことを指している。

対して、三宅悠太の『私が歌う理由』は今のところの印象として、仮構の「仔猫」で繋がれる人たちの歌だと感じる。この曲には歌への疑いはなく、仔猫で話が通じ、涙への共感で人が結び付く。

それが悪いことか? というなら悪い、と言ってしまいたい気持ちもあるがそれ以前の話として、そのスタンスは三善晃が最初から見切っているのではないかと思う。大体にして仔猫から始まるのは仔猫で繋がれる想定があるからで、それは最初ののどかにも聞こえる旋律に表れていると見ることができる。1983年にそこまで描かれている上であえて、というだけのことが三宅悠太の『私が歌う理由』にあるのか。現在のところ、自分にはそうは思えない。