『地球へのバラード』での『私が歌う理由』

「歌う」ということについて、『私が歌う理由』と『鳥』の対照が成り立つ。

私が歌うわけは/いっぴきの仔猫(『私が歌う理由』)

鳥は歌うことを知っている/そのため鳥は世界に気づかない(『鳥』)

また、『沈黙の名』と『鳥』は「名」について語る。

名づけられぬものの名は/彼女らを不幸にするばかりだから(『沈黙の名』)

鳥は空を名づけない/鳥は空を飛ぶだけだ(『鳥』)

『私が歌う理由』は「私が歌うわけ」が伝えようのないことを内的に証明するロジックをもち、「名づけられぬものの名」はその一般化と見ることができる。そして「名づけられぬものの名」が「故知らぬさびしさ」をもたらすことから、「名づけない」鳥への憧れが生じる。このように見る限り、『私が歌う理由』から『沈黙の名』、『鳥』の流れは直線的なのだが、では最初に挙げた対照をどのように考えるか。

クール・ジョワイエのCD『いのちのうた』のブックレットで三善晃は『私が歌う理由』について次のように書いている。

人がなぜ歌おうとするのかについては、谷川俊太郎さんの詩『私が歌う理由』が鮮やかに答えている。「私が歌う理由は いっぴきの仔猫 ずぶぬれで死んでゆく いっぴきの仔猫」。その「仔猫」も「目をみはり 立ちすくむ ひとりの子供」も、私たちのなかに入ってきて、紛れもなく私たち自身のものでありながら私たちの見識らぬ内部の混淆を、衝き動かす。私たちは、歌わずにおれない。

一方、『鳥』では「鳥は歌うことを知っている」というのだが、つまり鳥が歌うのには理由がない。「そのため」鳥は世界に気づかないというつながりが、三善晃の文章と対応するだろう。

「私」が歌う理由とは、「私」のなかに入ってくる「私」ではないもののもたらす不調和である。そして、「私」ではないものこそが「世界」であり、その不調和が「私」に、「私」ではないものを気付かせる。鳥には「理由」がないので、「私」ではないものに気付かない。もう少し言うと、「理由」がなく世界に気付かないときには「私」もない、ということになるのだろう。

ところで「私が歌う理由」というときに歌がそんな大層なものか、という観点はあり、実際件の冊子も目も当てられない代物だったのだが、『鳥』と対置すればもう少し別の見方もできるだろう。なぜ、ただ動いていて、そのうち動かなくなるだけのものでいられないのか、ということの端的な現れとしてこの詩では歌が選ばれたのであり、「地球への愛を歌いたい」という希望のために谷川俊太郎の作品の内からこの詩が選ばれた。