『ピアノのための無窮連祷による 生きる』

 

 『ピアノのための無窮連祷による 生きる』は好きではない。情緒の垂れ流しのような印象があり、初めて聴いた時にはうんざりした。それが三善晃の合唱曲でもかなりの人気曲であることについては奇妙に思っていたので、考えを書いてみる。

谷川俊太郎の「生きる」は、今は知らないが昔は国語の教科書に載っていたりもした、日本の詩の中でも特別に有名なものの一つだろう。教科書に載るということは「詩」というものが何かをこの詩から学ぶ、という意味もあっただろう。

が、それで詩が解るようになったかというとどうだろう。結局詩は「よく分からないけど言葉を連ねた、何か素晴らしいものらしい」という感じではないか。普段の扱いがどうあれ、詩は「尊い何か」と誰もが思っているのではないだろうか。近年「ポエム」と称したりその言葉遣いを批判したりというようなことが見られるが、詩という「尊い何か」であることを迂回または否定するためにこのポエムという言葉が使われているように自分には思える。

「生きる」の詩に戻るが、これは本当に詩なのだろうか? つまり、「生きる」を読む人はこの詩に、詩に対して期待する尊さを感じているのだろうか。言葉の身近さや、形態の単純さ、全体として大したことを言っていないようにも見えること、ついでに言えば国語の授業で扱えてしまうこと、などに、実は不審な感覚を持っているのではないだろうか。この詩があまりに卑近なものであるために、「これは詩なのだろうか」あるいは「詩とはこういうものなのだろうか」という疑念があるのではないか。

三善晃の『生きる』はこの疑念に対して、「これは詩である」という確信を取り戻させる。「無窮連祷」の意味は曲のピアノを聴けば分かるが、少しずつ形を変えながらいつまでも引き続けられる、このピアノの音に応じる心象が、詩の言葉を自然に受け止めさせる。詩だけでは「で?」というだけの言葉が、詩とは別に生まれた音によって意味のあるものになる。そのためにこの詩を歌うことへの安心感があり、それがこの曲に人気につながっているのではないだろうか。

真っ先に好きでないと書いた曲ではあるが、それでもここは素晴らしい、と思う部分はある。「ぶらんこがゆれているということ」の2小節は、不意に時間の流れが音楽からも遊離して、続く「いまいまが過ぎてゆくこと」の言葉そのままの表現となっている。曲中で最も美しい部分だろう。