『どきんどきん』について

『やさしさは愛じゃない』のことを暫く考えていた。この曲集については、表題曲の「じゃない」問題以外にはあまり語られていない気がしていて、実際どのように触れて良いかなかなか分からない。

「じゃない」問題、と言ったのは男声パートの歌詞は「やさしさは愛」まででその後に続くはずの「じゃない」が一度も出てこない、という指摘で、この発見自体は価値の高いものだと思っているのだが、そうは言っても「ぬるま湯」の「ぬる」だけを歌うパートが「君たちのパートの歌詞の割り振りには重大な意味が!」と言われるのは複雑な気分になるだろう。

とにかく何か書き出してみようと思い、最初は『さびしいと思ってしまう』について書こうとしていた。つまりこの曲では終盤、詩の「消してしまいたい」から「しまいたい」を除いた「消して」という言葉が繰り返されるがその理由について。が、先の「じゃない」の話から不意に『どきんどきん』について思い付くことがあり、そちらを中心にしてみることにした。

元が女性を写した写真集であることもあり、詩は女性の独白として意識される。そこで、歌い手には曲の表情が女性のある心情として理解されるように思う。が、「じゃない」の件から分かるように、この曲は「女と男」という図式を持っているはずで、では各曲にそれがどのように表れているか。 

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昔に書いたのだが、『どきんどきん』の中間部、「どきんどきん心臓が」と歌う部分は不思議な書き方がされている。女声3部と男声3部が「どきんどきん」と歌い出すのだが、音高とダイナミクスでフレージングが実質的に指定され、女声と男声でずれるようになっている。「どきんどきん」のリズムもところどころでずれ、面白くも美しい場面となっている。

「女と男」の図式というならばこのことにも意味があるはず、と思い直して気が付いたのだが、このずれは「私ではない人の鼓動を同時に感じている」ということだろう。男声に割り当てられているのでそれを「男性の」と言い換えられる。もっと言うとこれは抱き合っているというような、相手の鼓動を直に感じられる状況を表現している。

このように見るとき、1曲目から4曲目までの全てで「私」の言葉の裏に誰かがいるのに気付く。「消して」と訴えかける相手、抱き合う相手、私に焦点を合わせてほしい相手、「やさしさは愛じゃない」と糾弾する相手がいる。そうした局面の先に「私じゃない人にとりかこまれているから、/私はまだわたしになれるんだ。」を導出するのが三善晃の目論見だったのだろう。