『二つの祈りの音楽』の演奏いくつか

『二つの祈りの音楽』はとにもかくにも気になる曲ではあり、youtube に上がっているものなどいくつかの演奏を聴いてみている。それらについての印象を自分の関心に引き寄せて書いてみることにする。

CANTUS ANIMAE の演奏会で聴いたのが最初で、その時は特にどうとも思わずというか不信感が先行していたのだった。以前には

にっぽんの合唱オンライン・ティービー

こちらで期間限定配信されていた初演の録音を聴いたが、それも「聴いた」という以上のことはなかった。

不信感というのはもう少し言うと、宗左近の言い分であったり、信仰であったりに対する見解の不明瞭さ、ということになる。それをそのままに、何となくの共感で通してしまうのもありといえばありだろうし、そのようなスタンスの典型としてCANTUS ANIMAE の演奏は自分には感じられた。この印象はやはり雨森文也の指揮した慶應義塾ワグネル・ソサイエティー男声合唱団の演奏でも同じように感じられ、指揮者のスタイルなのかもしれないとも思った。

あい混声合唱団は多数の演奏を公開しており、この曲についてもyoutube 上代表的な演奏となっている。上に書いたような意味での演奏の姿勢はCANTUS ANIMAE と近いように思われ、より劇的な表現を行っている、という風に感じた。この団体について面白いと思ったのは同団の委嘱による室内アンサンブル版で、額縁に入ったとでも言うか、こちらと少し距離が開いたことで、合唱の歌いぶりがあまり気にならなくなったことだった。

Collegium Cantorum YOKOHAMA については正直いかがなものかと思った。客席の暗がりから出てきてみたりしゃがみ込んでみたりで死人の言葉を語り得るというのは安易ではないか、そして詩のカタカナ書きも無声音を多用した曲もそうした安易さと距離を置くためではないのか。ついでなので触れておくが、『二つの祈りの音楽』に取り上げられた宗左近の詩は全て他の誰かの言葉という建前になっている。「夜ノ祈リ」は「埋メラレテイル死者タチノ」とされており、「永遠の光」に使われた詩句は「夢 死者語る」、「組曲あちらとこちら 長老語る」より「鏡」、「始原 神語る」からとなっている。作曲者、詩人に加え、仮想された語り手があり、詩の言葉を語る立場は微妙なものになる。同団の演出はその微妙さに見合うものとは思えなかった。

松原混声合唱団の演奏会で聴いたのがこの曲の2度目の体験で、その時の目当てが三善晃の『変化嘆詠』だったこともあり、『二つの祈りの音楽』については「あまり共感を求められない分だけ気楽」という印象だった。その時の演奏がCDになった際に『変化嘆詠』の新しい演奏を手にしておくのも良いかと思い購入したものを、最近になって改めて聴いてみた。すると以前は気にもしなかったのだが、『二つの祈りの音楽』の演奏にかなり良い印象を持った。

この演奏では、合唱は「神」だけに向かって歌い、聴き手への共感を求めていない、という風に聞こえる。声や、言葉の発し方の細かい所で、意図してそのように歌っていると感じられる。詩の語り方、その立ち位置について、おそらく意識的な選択がされている。

問題があるとすれば、語り手、演奏者が崇高になりすぎることだろうか。宗左近の詩には時にあまりにもな露骨さ、身も蓋もなさがあり、それが感情を荒々しく揺さぶるところがある。「夜ノ祈リ」など、作曲の際にそのようなもの言いが大幅にカットされているので仕方ないのかも知れないが、この演奏の立派さはそれでもややずれたものとは感じる。