『紀の国』

この曲を知っているのはほとんどたまたまで、これが『父のいる庭』という組曲の終曲であるというのもつい最近になって知った。例によっての多田作品への愛のなさである。

それなりに人気のある曲のようで、YouTube でも複数の演奏を聴くことができる。この人気だが、ソロで歌われる「紀の国ぞ/あらぶる海の国ぞ」の旋律に負うところが大きいと思っている。あるいは、全体としてそれほど魅力的かは疑問に感じる。

詩に目を通してみたが、かなり要素が多い。場面が2回変わり、登場人物も詩人と「をぢ」、「吾児」といる上、それに加えて父の墓がある。「紀の国ぞ」から始まる数行が「」で括られており、これは「をぢ」の科白ということだろう。

詩は子供を連れた詩人の墓参りの道行きのように読める。全体の核心は「ゆづり葉の」にある。詩人と「吾児」、父の墓、「紀の国」がこの言葉のもとに集約される。この仕組みを表現しようとすれば、上記の要素を明確に描かなければならない。

多田武彦の曲はどのようになっているだろうか。

冒頭部分、ユニゾンで音域を上げながら声部を増していき、最も高潮したところで和音を鳴らす展開はシンプルだが魅力的だ。ここで背景の海と、「をじ」、血縁という主題が示される。

次の「うつとりと」からの部分も、繰り返し含めてやや単調ではあるが、道中の風景を描いて雰囲気がある。その次の「紀の国ぞ」のソロから「汝が父の生まれし処ぞ」まで、「紀の国」の風土と父が結び付けられて現れることになる。曲としては、ここまでの提示は明快になされている。

 この先、「父逝いて」からの部分はあまり良くないのではないかと思う。言葉としてかなり複雑なことを語っているのだが、聞いて意味が通じないとならず、また「吾児」を印象付けないとならないのだが、どちらもそれほど上手くいっていない。音の単調さに言葉が流されてしまう感がある。ここからそのまま「あらぶる海の国は」の展開に入るのもやや芸がなく、その後の「我がためには」あたりがだれる。そうしたことが、オクターブのユニゾンによる「ゆづり葉の」の効果を強めてもいない。「吾児」が沈んでいるので「ゆづり葉の」の意味的な効果も不明瞭になっている。

こうした点の対処が演奏には求められると思うのだが、演奏を聴いた範囲ではそれほど気にされている風でもない。昔ほど「テナー馬鹿御用達」という感じではなくなっているのだが。