『三つの時刻』と『三つの夜想』

『三つの夜想』と『三つの抒情』との関係は三善晃自身の言葉や、3曲から成る女声合唱曲であること、初演団体の関係性などからよく語られるところだが、実際にはあまり踏み込んだ内容を見かけることがない。自分でもあまり見通しを立てられてはいない。

詩を見比べると、むしろ『三つの時刻』と並べてみる方が意味があるも知れない。実際、この2曲の詩の配列は類似したストーリーを描くように見える。

例えば3曲目、

僕は墓の石を埽かう

(「松よ」)

 

私のために かるい笑いをたたえたまゝで

旅に立った者を

(「或る死に」)

両者とも、選ばれた詩の背景には近しい人の死がある。起点となる1曲目では

 むしろ ああ かかる世では

(「薔薇よ」)

 

急に もしも

眼のまえの摩天楼が

音をたてて崩れおちたとしても

(「淡いものに」)

現実の世の中を超える価値(「”真実”」)が語られる。その起点に対して、1曲目から2曲目にかけて描かれるのは、その「”真実”」に背いた、ということだろう。 もう少しだけ強く言うなら、二つの曲に共通するのは、”真実”に殉じた誰か、背いて生きた自分、という物語だ。『三つの時刻』はまさにそうして生きてしまっている自分、という意味で男声によるしかなく、『三つの夜想』は”真実”から離れて生き続けてきた自身にその「背いた」という意識を告げるものとして女声合唱としたのだろう。