『無伴奏混声合唱のための After…』

 

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 信長貴富東京大学柏葉会合唱団の取り合わせから、同団の委嘱作品である『After…』をyoutubeで聴き、また『廃墟から』と『After…』の楽譜を見てみた。

そうしてみていくつか思うこともあったので、その話をしてみたい。

柏葉会による『After…』の初演音源を聴いて

気前の良いことに、全曲の音源が公開されている。『廃墟から』から流れで聴いたこともあるが、音の印象が鮮やかに残った。

数回聴いて思ったのは、初演からこんなに正しい演奏で良いのだろうか、また、この先時間が経つほどこのような正しい演奏はされなくなっていくのだろう、ということだった。この「正しい」という印象は、詩と曲と、その背景である東日本大震災に関係する。

この曲で扱われた谷川俊太郎の詩は震災後間もない時期からその2年後くらいまでに書かれたものらしく、その時期の世の中と自分、当時の狂騒を思い出すとき、詩の言葉がそこから非常に慎重に距離を置いていることに感銘を受ける。そして、選ばれた4つの詩に対し、信長貴富の音楽もまた、明快ながら情緒を過剰に煽ることのない、真摯なものとなっている。

柏葉会の演奏は、詩と曲と声との間で丁寧に間合いをとることによって、音楽の背後に巨大な惨禍を暗示してみせている。この曲が感情の表出では届かないものを表していることが、演奏を通じて感じ取れる。それは、この曲の「正しい」表現だと自分には思える。

だが、このような演奏ができたのは、おそらく震災からの年数がまだそれほどでないからという面がある。震災とその後の世の中とにまつわる何らかの実感を慎重に形に表すことでこの音楽は成り立ったのだろうし、実感は時とともに薄れ、慎重さは歌い継がれながら失われていくだろう。いずれは、この曲は架空の惨事に対する歌い手の心情を乗せて歌われるようになっていくしかないように思われる。

楽譜を見て

楽譜も購入してみた。ざっと眺めてみて、幻惑されるような響きが意外とシンプルな方法でできていることに少し驚いた。

1度の関係の扱いの巧妙さは特徴と言えそうだった。『絶望』の2群合唱など、言ってみればただ同じ和音を連打しているに過ぎないのに、驚くような響きとして届く。また『そのあと』でのパートを分割して同音のまま異なる歌詞とリズムを歌わせる楽譜も、奥行きのある表現になっている。

もう一つ、和音の積み上げ方の上手さも感じられた。これは『言葉』の冒頭から表れているが、ポピュラー音楽も含めた意味で現代的な音を、合唱として豊かに響かせる配置の仕方が工夫されているように見える。

アイディアの豊富さも見て取れる。「言葉は発芽する」からの音画的な表現とその次の言葉の分解から統合、先に触れた『絶望』の2群、『そのあと』の「そのあとは一筋に/霧の中へ消えている」の表現など、特徴的な表現が見られる。

和音の配置は反面としてパートの分割の多さ、同音の繰り返しの多さなどにつながっているように見える。多数の音を重ねながら美しく響かせるために広い音域が必要となっているのかと思う。

多様な音響も、一方で場面転換の単調さを生んでいるかも知れない。アイディアの連鎖でできているために移行の方法が止めて切り替える、になってしまうのではないか。

こうしたことの総体として、『After…』は案外少ない要素で出来上がっているようだった。このことは、抱えるテーマの大きさを暗示する形で機能していると思うが、そのテーマ性が十分に受け止められなくなる時が来れば、そこを充填する形で不自然な感情の侵入が生じるようになるだろう。