『絶え間なく流れてゆく』

先日の柏葉会による『廃墟から』が良かったので楽譜を購入した。特に気になっていたのは第一章『絶え間なく流れてゆく』の、「ギラギラ」等々の言葉による、頭がぐらぐらするような音の成り立ちだった。35小節、楽譜の区分では「D」となっているところからになる。

この部分は単純とも複雑とも言える作りになっていた。譜面は各声部4つの16声部に別れ、1ページに1段3小節しか書かれていない。基礎となるのはESとDの2つの音だけで、高声は急速な三連符で「Kyrie」を繰り返し、低声は二拍三連で「Kyrie eleison」を歌い、高声の「Kyrie」と入れ替わるようにして「ギラギラ」と繰り返す。高声のKy-ri-eの音高はES-D-D、低声は常にESだけを鳴らし、低声の「ギラギラ」は繰り返しながら声部が増えていく一方、高声の「Kyrie」は繰り返しながら減っていく。その先、高声の「Kyrie」の間の空白に新たな要素が付加され、また低声の「Kyrie eleison」が変形していき、次の展開に至る。

この部分は、Ky-ri-eとgi-ra-gi-raの、発音上の類似まで織り込んで作曲されている。例えば「ギラギラ」が「ペコペコ」では、テーマ性を措いても音響として、同じ効果は上がらないだろう。ここで奇妙なのだが、そもそも信長貴富が取り出したテキスト自体には「Kyrie eleison」という言葉はないのだった。おそらく原民喜の作品自体に「Kyirie eleison」とそのまま出てくることがないのではないか。

出所は分かっている。楽譜のテキストには、「主よ、あわれみ給へ」及び他のいくつかの言葉が、『魔のひととき』に収められた「家なき子のクリスマス」から採られたことが記載されている。ここから元々の「Kyrie eleison」につながるのは出来上がった作品を後から見る分には理解できる。

分からないのは、テキストの選択と音響がどのように構想されたか、ということだ。「Kyrie」と「ギラギラ」を重ねることを考えるためには「Kyrie」に言葉を使うことが前提でなければならないが、「Kyrie」を使うために「主よ、あわれみ給へ」を取ってきたと考えるのは不自然で、まず「主よ、あわれみ給へ」があって、それから「Kyrie」を思いつくのが自然な順序ではないだろうか。すると、あの部分の音響のイメージが先にあることはあり得ないが、先にないとこのようなテキストの選択ができないことになる。

想像を言うなら、「主よ、あわれみ給へ」と読んだ時に「Kyrie eleison」の言葉が、事態と語る言葉の持つ苦しさを通じて、分かちがたく結びついてしまったのではないか。そのために、むしろ「Kyrie eleison」を前提としてこの曲が書かれたのではないだろうか。