『絶え間なく流れてゆく』と原民喜『鎮魂歌』(1)

『廃墟から』の楽譜の前書きには、次のように書かれている。

曲名は『鎮魂歌』の冒頭の一文「美しい言葉や念想が殆ど絶え間なく流れてゆく。」から採ったもので、作曲の着想は主にこの『鎮魂歌』の文体から得ている。私は『鎮魂歌』について、フラッシュバック(強い心的外傷を受けた後、その記憶が鮮明に思い出されたり、夢に現れる現象)を文章化したものではないかと想像している。作曲はその心理現象を追体験する行為だった。

『廃墟から』は物凄い作品ではあり、特に『絶え間なく流れてゆく』の音響は衝撃的だった。が、一方でこの曲のテキストの扱いや作品の指向するものに疑わしい思いも残った。

原民喜『鎮魂歌』を軽く眺めてみたのはこの曲に対する手掛かりにならないかということで、原民喜とその作品には特に関心もないが、粗く内容をまとめ、そこから曲がどのように見えるかを考えてみたい。

 

『鎮魂歌』は、作者自身と思われるひどく混乱した人物が、自身の知覚と思考の中である整理に至る話となっている。「冒頭の一文」を含む最初の部分を引用すると、

美しい言葉や念想が殆ど絶え間なく流れてゆく。深い空の雲のきれ目から湧いて出てこちらに飛込んでゆく。僕はもう何年間眠らなかったのかしら。僕の目は突張って僕の唇は乾いている。息をするのもひだるいような、このふらふらの空間は、ここもたしかに宇宙のなかなのだろうか。

混乱と書いたが、それは過去の体験と妄想と現実の間で起きている。「このふらふらの空間」は焼け野原を歩いた体験と結び付いており、「ここもたしかに宇宙のなかなのだろうか」というのは自分の空想を疑っている。こうした状況では現実というものがそもそも成り立たないことも注意する必要があるだろう。

この後に原爆に関する奇妙な形での追体験があり、「僕はここにいる。僕はあちら側にはいない。」(「あちら側」とは再生された原爆の爆発の映像のこと)との思考をきっかけに、別の場面を思い起こし「僕は僕の向こう側にいる。」と反転する中から、自身の認識と現実との関係が把握されていく。

「僕」は「人間の声の何ごともない音色のなかにも、ふと断末魔の音色がきこえた」「何ごともない普通の人間の顔のなかにも、すぐ死の痙攣や生の割れ目が見えだして来た」という。「何ごともない音色」「普通の人間の顔」よりも「断末魔」「死の痙攣」の方を知覚している。このために自身を「突離された人間」「還るところを失った人間」あるいは「剥ぎとられた世界の人間」という(現実から突き放された、現実を失ったということだろう)。「断末魔」や「死の痙攣」は「救いはないのか、救いはないのかという嘆き」となり、その「嘆きのなかにつらぬかれ」るところから、自分が「鎮魂歌を書こうと思っている」のに気付く。その鎮魂歌とは現実、剝ぎとられていない世界のことであり、それが「僕」のなかを「向こう側」へと「流れてゆく」。