『絶え間なく流れてゆく』と原民喜『鎮魂歌』(2)

 

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前回乱暴にまとめた『鎮魂歌』だが、もっと強引には

  • 「僕」にとっての世界は「剥ぎとられた世界」であり、「救いはないのかという嘆き」が認識の大もととなっている。
  • 現実が剥ぎ取られているため何ごとも不確かであるところ、「嘆きにつらぬかれる」(断末魔の嘆きを前に、刺し貫かれるように苦しい)ことから「鎮魂歌を書こうと」する意思が確かめられる。
  • 冒頭の「絶え間なく流れてゆく美しい念想」は、鎮魂歌の内実としての現実の姿だった。

となる。

 

ところで、作曲者は「着想は主にこの『鎮魂歌』の文体から得ている」と書いている。その観点からは、

  • 一人称による主観的な語り
  • 同じまたは類似の言葉の異様な繰り返し
  • 急な話の転換やずれ
  • 「声が聞こえる」と言っては入り込む語り、それが本人とも他人とも創作の人物ともつかないこと
  • 支離滅裂のようで奇妙に構造化された文章の連なり

といったことが目に付く。

 

ここまでを準備として、曲の中でのテキストの扱いを見てみる。楽譜の後ろに載せられた歌詞を見ると、原民喜の詩や文章から断片的に取り出されたものがほとんどとなっている。例外を3点あげると、

  1. 曲の冒頭に現れ、終わりに再現される『碑銘』については全文が使用されている
  2. ”Kyrie eleison" は、『家なき子のクリスマス』に「主よ、あわれみ給へ」とはあるもののそれ自身は原民喜の作品からではない
  3. 『鎮魂歌』からの言葉は一部改変されている

まず、諸作品から採られる断片的なテキストだが、これは先に挙げた『鎮魂歌』の文章の特徴、話の転換やずれ、言葉の繰り返し等の性格を写し取るものだろう。これは元のテキストの平仮名と片仮名の取り上げ方まで追えばもう少し詳しく言えるかもしれない。

3番目について。曲中では「無数の嘆きよ 鳴りひびけ」と歌っているのだが、元の文章ではこのようには接続していない。例えば「無数の嘆きは鳴りひびく」のように、また「無数の嘆きよ、僕をつらぬけ」のように現れる。

解釈としては「無数の嘆きよ、僕をつらぬけ」に近いと考えるのだろう。鳴りひびく無数の嘆きは「僕」をつらぬき、それは上に書いたように苦しみをもたらす。その自傷的な希望が「邪悪な笑い声」につながる。正直に言えば狂気の哄笑というのは陳腐な気もするが、本文の展開が決して安易なものでないということを考えたのではないかと思う。

遡って2番目について。”Kyrie eleison” は全曲を通じて用いられ、中間部では複雑にリズムをずらされたり細かい音符で繰り返すなど、言葉よりは音響的なパーツのようにも扱われている。この言葉は、『鎮魂歌』での「救いはないのかという嘆き」の代替だろう。

1番目、最初の部分と最後の部分が『碑銘』によるなど、特に重く扱われているのが分かる。「一輪の花の幻」の和音の表情が前後で全く違っており、この詩行の意味あるいは解釈の変化を示している。