三好達治の『甃のうへ』には多数の作曲家が曲を書いていて、こちらのデータ
http://www.geocities.jp/scaffale00410/index.htm
では11人もいるらしい。その中で聴いたり歌ったりしたことがあるのは萩原英彦、多田武彦、荻久保和明の3曲ほど。
萩原英彦の『甃のうへ』は『抒情三章』の一曲。『抒情三章』は、楽譜の序文をざっと読んだところでは、萩原が若い時期に書いた曲を整理・処分する中でこの曲は残しておこうと思ったものをまとめたものらしい。曲は「ひとりなる/わが身の影」でわずかに沈むにせよ、「翳りなきみ寺の春」に見合う明るい調子の音楽になっている。ただしやはり楽譜の序文からは、苦悩の青春期に書かれた曲のようであり、曲の明るさの意味は考えてみる必要があるかも知れない。
多田武彦の『わがふるき日のうた』は男声合唱では有名な曲で、その第一曲である『甃のうへ』もよく知られており、動画なども多い。痛切な憂愁の表情が特徴的な曲だが、この表情はおそらく「ひとりなる/わが身の影」のゆえに「翳りなきみ寺の春」が耐え難い、ということだろう。詩を読み解く感覚の鋭さを感じる。
荻久保和明の曲は、対位法の訓練として書いた習作のようなものであったらしい。全体が曖昧なメランコリーに浸る中で、各部分ごとの詩句の表情を表現するような音楽になっている。前2曲の表情は「明るさ―暗さ」の線上にあるが、荻久保の場合は「花びら―甃」、「軽さ―重さ」という見方をしているように思える。
並べてみると、作曲家それぞれの性質のようなものが見えるような気がして面白い。尾萩原英彦は「わが身の影」に対して救いのようなものを求めたのかも知れず、女声合唱として書かれたのもそのような意味かも知れない。あるいはそこに信仰も関わるだろうか。多田武彦にはそのような感覚はなく、ただ「影」があるばかりであり、それは詩に対する忠実さでもあるだろう。荻久保和明については、実は「影」という感覚が分からないのではないかという気がする。健全さでもあるのだろうが、憂鬱さは気分であり「影」のような内面での実体的な何かとしてはとらえられないという風に見える。