『鷗』の話(2)

 

tooth-o.hatenablog.com

 

前回『解釈』を補強するかも知れないと書いたが、重点が『解釈』からずれていく面がある。主眼は旧制三高のところにあり、施設の配置や朝の歌、夕べの歌のあたりが関連付けられるならそれなりに説得的になる一方、そうでなければ「そう思うのは勝手」くらいの話になる。

このあたりはその気があれば検証できることではある。が、ともあれこの線の先で、例えば木下牧子の曲から学生歌のようなカラーを読み出す可能性が見えてくる。清水敬一が『合唱指揮者という生き方』の「生きた現場から」で書いたこととも結びつくかもしれない。

 

3.『解釈』周りにもどって

『解釈』の広がり方の気味悪さについて触れたが、最初に『解釈』を語った方が『解釈』に賭けて表現をするのは素晴らしいことのはずで、それを紹介するのも価値のあることだっただろう。問題はその先、さらに『解釈』が広がるにあたってそれが深められることも検証されることもなく、ただ鵜呑みにされ、あるいは根拠を示されることなく当然視されていくことにある。ここに「戦争」の論点が加わり、イデオロギー的とも言えそうな解釈の固定化が進められているように見えることが気味の悪さを引き起こしている。

一方、『解釈』は少なくとも「白」を通じて鴎と旧制高校の制服を結び付ける点で、根拠を持たない雰囲気だけの解釈とは異なっている。これに対して単に解釈としての必然性の弱さだけを指摘して「あり得る解釈の一つ」に引きずり下ろすこともまた不当と思われる。『解釈』が広まるのはそれ以外の解釈が十分になされていないから、という面があるのではないか。