好きでないので何か言えるほど聴いていないのだが。
信長貴富の曲で一番最初に聴いたのは『ヒスイ』だったと思う。「透明な憂鬱感」みたいな感じは、ある程度特徴的なものとして出てきたのは木下牧子あたりではないかと思っているが、扱う音は違うもののそのような感覚がある。が、ならその落ちはなんだ、というのが『ヒスイ』の印象だった。木下の憂鬱はその後さらに深められて『虚無の未来へ』のような曲を書いたりしていた、かなり一貫性のある課題だったが、信長はあんな風になってしまった。ついでに言うと、貧しさの感覚も実はそんなに苦しい印象でないのは意図があるんだかないんだか。
近い所では
この演奏会は森田花央里のピアノにすべて持っていかれたという感じだったのもあって、 『不完全な死体』を聴いたものの、感想をという気にもならなかった。あえて言うなら素人演芸を混ぜ込まれても困る、くらいか。
遡って
『うたうべき詩』を聴いたのだったが、変な純朴さが気味が悪い。合唱やってるとこうなる、という感じのナイーブさと感じた。
実際に歌ったことがあるのは『箱根八里』の編曲で、練習で少しだけ触れたことがあった。新旧の歌詞を対比する意図があるようだったが、編曲として特に魅力的でもなく、歌詞についてもその程度の意味づけをしなければ何をやってるか分からない、程度のことのように思えた。
いくらか良いと思ったのが『春と修羅』で、言ってしまえばどぎつい表現を並べれば聴かせられるということでしかないのだが、少なくとも楽曲として勝負している曲という印象があった。
このように見返してみてふと、信長貴富は割合コンセプトで勝負したいのかも知れないと思えてきた。そう思えば、寺山修司を取り上げることも分かるような気がするし、『箱根八里』のような作り方もその線の上にあるように思うことが出来る。ならば、『うたうべき詩』のような純朴もそのような振舞い、ということなのだろうか。このあたりはあまり確信は持てない。
ただ正直なところ、コンセプトが魅力の薄い曲の価値をごまかす程度の働きしかもっていないような印象がある。柴田南雄ほど徹底していればともかく、通じやすい情感を手軽に取り込んで合わせ技で曲の価値を担保しようとしているように見える。