『私が歌う理由』その1

『私が歌う理由』についてはある程度書いたような気がしていたのだが、見返してみると時々触れることはあっても、まとまった形で書いたことがなかった。ここで、思うところを一度まとめてみたい。

詩は5つの連からなり、各連は4行、それぞれの1行目は「私が歌うわけは」、2行目と4行目が同じ等、形式が非常に強く定まっている。この詩について、三善晃はCD『いのちのうた』のブックレットで「人がなぜ歌おうとするのかについては、谷川俊太郎さんの詩『私が歌う理由』が鮮やかに答えている」と言及している。

ここで、疑問に思うべきかも知れない。その鮮やかな答えがなぜ5回も繰り返されなければならないのだろうか? 鮮やかな答えであるならば1度で十分ではないだろうか。

あるいは、繰り返しではないのか。第3連と第4連、「子ども」と「おとこ」の間には、他と異なる対照が見られる。これはどういうことなのだろうか。

曲の方を見てみよう。一貫したテンポとリズム、特に「私が歌うわけは」のリズムの共通性から、詩に応じた形式性が感じられる。詩との対応で見ると、第1連、「仔猫」が繰り返され、全体で6つの部分と考えることもできるだろう。第3連の「ひとりの子ども」から転調が入り、第4連で非常に高潮する。この4行目、「ひとりのおとこ」が最後まで言い切られないことは注意が必要だろう。そして第5連は最初とほとんど同じメロディーで始まる。

ここで触れたことの一つ一つが、やはり疑問ともなるだろう。なぜ「仔猫」を繰り返すのか。「子ども」で転調するのか。「おとこ」の言葉を言わないのか。なぜ最初のメロディーに戻るのか。

そして、この曲について最も重要な疑問があるだろう。『私が歌う理由』が『地球へのバラード』の第1曲であることの意味は何だろうか?

『地球へのバラード』の前書きを読み直してみよう。

私は、願わないことの怠惰を知っているが、また、願いが絶望によって育てられることも知っている。その上でなにかを願うのならば、それはその願いを育てたものの形質を通り過ぎた歌声によってであろう。

「願いが絶望によって育てられる」ということは、「その願いを育てたもの」はそのまま「絶望」ということになる。

人間をふくむ生命の星としての地球への愛を歌いたい、という柏葉会の方々との話し合いから、谷川俊太郎さんの詩が求められ、その全詩作から5作がたしかめられるまでに2年かかった。

 整理するなら、「地球への愛」を歌うのならば「地球への愛を歌いたい」という「願い」を育てた「絶望」を、通り過ぎた歌声によって、ということになるだろう。このように見たとき、『私が歌う理由』の意味はその「絶望」を示すこと、となる。

疑問は次のように変形される。『私が歌う理由』の示す絶望とは何だろうか?