『愛の歌』

愛という言葉を扱うような質でもないのに『黄色い鳥のいる風景』のところで持ち出したとき、考えていたのは「はるかな過去を忘れないこと」「いのちをかけて生きること」の言葉だった。格言のようなものは好まないので谷川俊太郎のこの詩句についてもそういった捉え方ではない。つまり、「悲しいくらい好きになること」が、その誰かあるいは何かを生み出した過去を要請すること、誰か、何かを生み出したゆえに世界が世界であるということにベットするということが「愛」である、というロジックなのだろう。(世界を世界としない、というのは例えば宗左近の「うつつよ~」)

それにしても『愛の歌』は奇妙というか、「愛」というとき少なくとも自分はもっとも個人的な心情と行動の問題と思うのに、この曲は合唱という多数が参加する形態で、しかも多くの要素を含んだ大きな作りの楽曲なので、聴いていて戸惑うところがある。

 

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 1曲目の『ひとり』が、このあたりのからくりを通じてパーソナルな歌を皆で歌うものにするのだろう。そして「ひとり」であることの共通性が「くりかえし」を導出する。