男声版『三つの抒情』のこと

 なにわコラリアーズのコンサートで福永陽一郎編曲の『三つの抒情』を聴いた。

 

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 全般に高声優位、かつかなり無反省に歌っている、と感じていた中で、『三つの抒情』だけは比較的落ち着いた音が鳴っていた。正直「何だお前らさんざん隙に貼り上げといて。今こそ気合入れて吠えろよ」くらい思って聴いていたのだが、なんとも穏当な男声合唱、という演奏になっていた。このことについて、一つ思い当たることがあった。

確か岩城宏之の本だったが、高橋悠治による何かの曲のオーケストラへの編曲についての話があった。何でも、非常に響かないアレンジだったということだった。そのことについて岩城は、自分の方がオーケストラの音を知っているし、良くなるアレンジを書ける、しかし、と話を進める。その響かない編曲の中に高橋悠治の創造があるのだ、というように書いていたように記憶している。

福永陽一郎の編曲についても似たような事情ではないか、と思う。男声合唱として普通に鳴らせるように音を移していった結果、男声合唱団が演奏しやすい曲になったのだろう。

ここからさらに、思うことが二つある。一つは、三善晃は和音がどれくらい響くべきかを精密に計って音を配置していたのだろう、ということで、その行き着くところとして『その日−August 6−』の「わたしは」以降がある。今回『三つの抒情』以外の曲について、おそらく普段と同じように歌った結果がパート間のバランスの悪さで、三善晃は難しい、という話になるのかも知れない。

もう一つが、男声合唱としての『三つの抒情』とは何なのか、ということで、今回のパンフレットを見ると指揮者も相当このことを考えたようだった。実際の演奏は大方、女性が女声合唱を歌うような歌い方、という印象で、男が歌う、ということの意味は回避されていたと思う。