三枝木宏行「三善晃《レクィエム》テクスト再読」

表題の記事を読むために、日本現代音楽協会『NEW COMPOSER Vol.13』というのを購入した。作曲家、演奏家、評論家等による、専門家にとって面白い会誌のようなものだと思うが、ただの物好きでしかない自分にはおよその気分くらいしか分からない。

ともあれ目当ての記事だが、タイトルの通り『レクイエム』の歌詞を出典に戻って検証するもので、直接の出典である『日本反戦詩集』『海軍特別攻撃隊の遺書』からさらに初出や背景事情にさかのぼる、しっかりとしたもの。また時には各詩句の影響関係、あるいは曲中の動機の関係性に触れることもあり、専門家の仕事はこういうものかと思う。

一方で、三善晃とその作品について書かれた文章に付きまとう誤魔化しのような所が、この記事にもいくらか見られる。ストレートに書けば、「楽曲への結論ありきの説明」「ポエムによる推論のスキップ」「意味不明な言葉遣い」「作曲者の言葉の妥当性が不明な引用」といったもので、こう書き出すにつけても自分に跳ね返って来て恥ずかしいのだが、書籍に記載の文章からCDのブックレット、コンサートのプログラム、ウェブ上の記事までどこを見てもこうしたことを感じる。

標記の記事で言うと、副題「『合唱と管弦楽のための三部作』をめぐる死生観」が添えられており、入り口から、「死生観」ですか、と出鼻を挫かれる。さらに「”生”」「”死”」と書いてしまうのもついやりがちで、「三善晃が何を言っているか分からない」の符丁のようなもの。

さらに「弧」が出てくる。これは三善晃が「弧の墜つるところ」やそれ以前にも『チェロ協奏曲』についての文章で使っていた言葉だが、これが『王孫不帰』『オデコのこいつ』『レクイエム』のつながりにもあてられてよいものか、自分としては怪しいと感じる。これも意味不明かも知れないが、この言葉は「ある課題の解決に向けて辿るべきプロセス」のような意味合いで使われているように見え、この3曲の関係はそうではないと思われるからだ。

中予始子「ゆうやけ」(名前の誤記が多いとの注があり、こういったところもしっかりしている)について書かれた部分では、「作曲者の過去に共振できた”子どもの声”だったのではないかと考えられるだろう。」とある。これは「作曲者の過去」と接続することが先行し、また「共振」という曖昧な言葉によって結局のところ何が考えられるともつかないことになっている。

その他に読んで思ったことを2つほど。本文の最後の部分で『プロターズ』に注目していることが個人的に嬉しい。ギター2台だけの曲だがこれは重要な作品だと思っている。

もう一点、本文には

そのように完全に「作曲者の体験」となるまで削ぎ落とされた言葉たちに、原テクストが本来語ろうとしている意味内容を求める事は、楽曲の聴取その事自体にはそれほど重要なこととは言えないかも知れない。

とあるが、上に挙げた「ゆうやけ」が詩集の「子どもの声」の章にあることの指摘は(他の諸々の解説文でも読み取れるにせよ)、改めて言われてみると曲が太平洋戦争の問題をはみ出し得るポイントであり、特に合唱をする人には「どう思えばより自然に歌えるか」というような身体的な感覚を通じて曲の受け止めが変わる可能性がある。