「無言の風景」を読みながら

CD『三善晃|交響四部作』のブックレットに載せられた三善晃の小文「無言の風景」を読み返す。2009年のこの文章は三善晃の老境を窺わせ、またそこから見える三部作と四部作の姿が語られて、興味深くまた感動的なものになっている。

三部作自体が『レクイエム』から『詩篇』まで7年、『詩篇』から『響紋』まで5年と長い年月がかかっているが、そこから四部作までの11年を「年月が過ぎた」、またそこからこの文章を書いた時期までのやはり11年ほどについて「四部作からも、年月は経った」と言う。その通り、長い時間が経ったのだ、と思う。そして、もうこのような巨大で激しい楽曲を書くことはできない状態から、それが可能だった時代の自分自身、自分が為そうとしたことを見返す感覚が、実感として伝わってくる。

このCDが出てからもうすぐ9年、四部作の完結からはまもなく20年になる。いつの間に、と思うが、ここでも長い時間が経った。

取り出したついでで、四部作を聴き通してみる。時間が過ぎた分だけ、この4曲にも少しずつ馴染んできた。三善の「三部作のとき、そこには私がいた」、また「四部作のときには、そのような私はいなかった。替わりに八月がそこにいた」という意味も、三善自身にとってだけでなく、自分にとって、また聴く人にとって何であるかが感じられる気がする。

現在のところ、三部作は四部作より重く見られているように思う。それは多分、「そこには私がいた」からだ。三部作、またその時代の他の曲には三善自身の苦しみが聞こえるような感覚があり、三善晃を聴くというのはその苦しみを聴くことだった。

80年代の後半あたりから、そうした感覚は薄くなった。90年代には合唱をやっている者の間に「最近の三善の曲はつまらなくなった」という話題があり、栗山文昭が反論したりもしていた。この頃にも三善晃の曲に期待されたのは苦しみの感覚だったのだろう。

三善晃は「八月がそこにいた」と言うのだが、むしろ八月だけがそこにいるように、私がいないように、仕立てたのだと自分には思える。『地球へのバラード』で三善晃は楽曲から自分の苦しみを取り除く、ということをした。『レクイエム』が不完全となる原因だった自分自身を切除して、『響紋』を書き、三部作を終わらせた。四部作はその先にある。

三部作と四部作の評価はいずれ改まるだろうと思う。亡くなった三善晃の苦しみの感覚に対する欲望は、年月とともに薄れていくだろう。そうして、四部作への向き合い方が変わっていく。その時には、四部作は偉大で恐るべき作品群、ということになっているかも知れない。