『混声合唱と2台のピアノのための 交聲詩 海』(2)

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詩の大枠は、人が世界に向き合い生きることの原型と、太陽が昇り沈む海の姿の照応、ということになるのだが、ここまでの読み方は実際には三善晃の楽曲からの反映を含んでいる。というのは、1・2と3・4と5・6の組がこれほどまで同じ形をしているにもかかわらず、『交聲詩 海』の3つの部分はそれぞれ大きく異なっている理由を求めながら読んだ面があるからだ。三善晃は詩に時間の経過を見ており、また「夢の炎の炎の花」には宗左近の「炎」を読み込んでいる。

『交聲詩 海』について

三善晃の曲の中で、この詩の言葉を発する語り口はどのようなものなのか。女声は次のように歌い始める。「送りながら 送られながら/波/ゆれている 生命/波/どこまでも」。この部分の旋律はおおよそA-Cの交代でできていて、単調さ、茫洋とした感覚がある。この言葉は自分の印象では、うわ言として楽曲上は口にされている。続く「ヅヅアァル ヅワァル」は、波そのものの表現ではなく、波音の口真似をしている。曲の始まりから既に、この曲では何かの箍が外れている。

そう見ると、この曲にはところどころ、こういう言い方も何だが素っ頓狂な部分がある。先に挙げた「ヅヅアァル ヅワァル」や、「Ⅱ」でのここを伸ばすか、という「すいへいーーーせん」、「Ⅲ」での「夢の炎の炎の花」の(3+4+4+3)拍子の無茶な感じなど、実は奇妙、という箇所が埋め込まれている。

極端に言うなら、『交聲詩 海』に表されているのは途方もないものを前にしておかしくなった人の姿である。が、それは単におかしいというのではない。この「おかしさ」に対する意味での「正気」は人と人の関係の問題であり、この曲にあるのは人が世界に対するあり方である、ということだ。『交聲詩 海』では声を発すること、その声を聴くことがそうした世界の感受そのものとなり、歌い手はさらに自身を自分の声に託していく。『交聲詩』とはもちろんドビュッシーの『交響詩 海』から採ったには違いないだろうが、ただそれだけに留まるものではなく、この曲のこうしたあり方を呼ぶために生み出した言葉でもあった。