『混声合唱と2台のピアノのための 交聲詩 海』(1)

『交聲詩 海』を演奏することは以前は大変なことだったと思うのだが、youtube を見ていても思いの外盛んに演奏されている。自分ではそれほど好きな訳でもないのだが、それでいてこの曲を軽んじるような発言を見かけると腹立たしかったりもする。ともあれ、この曲には他にない特別な力があるとは思っていて、そのことを含めて触れてみたい。

宗左近の詩について

まず『海』の詩を見てみる。6つの連から成り、番号が振られている。割合言葉数が少なく、形式感が強い。奇数番目同士、偶数番目同士が同じ形をしており、1と2、3と4、5と6がそれぞれペアをなす。各ペアは「あけぼの」と「青い薔薇」、「眞晝」と「黄いろい薔薇」、「夕映え」と「赤い薔薇」の詩句により朝、昼、夕方の時刻に対応する。ここから東と南と西に海が見える場所は、という話もできるがここでは扱わない。

この詩の強固な形が崩れている部分がある。1、3連の「生命/どこまでも」が5連で「生命/いつまでも」になる所で、これが詩の3つのペアを単なる対照ではなく、過ぎていく時間としての朝、昼、夕方であると示している。さらに言えば、この関係は過ぎていく時間の方が実質であり、朝、昼、夕方は何かの比喩である、と読むことができる。実際、三善晃が楽譜の前書きに

私の歩んだ”海の道”

自分はずっと海の隠喩を生きてきた、それだけだ、ということです

と書いていることからは、作曲者自身が「あけぼの」「眞晝」「夕映え」にただの時刻ではないものを見ていることが伺える。

宗左近の「炎」「縄文」について

時間が実質なら、「何かの比喩」と書いたその「何か」は人の(「私」の)生、生きている時間、となるだろう。このことを軸にして、詩の言葉を読み直してみたい。

その前に、宗左近の詩に特に通じてはいないが、そこに現れる「炎」と「縄文」について確認しておく。「炎」はまずは空襲の炎だが、それは時には「母親を焼いた炎」、また宗左近の目に見える「世界全てを焼いた炎」、というように扱われる。「世界を焼いた炎」はさらに意味を広げられて、「縄文の世界を焼き滅ぼした炎」ともなる。

「縄文」は『海』には現れない言葉だが、おおまかには「後の人々のために自分自身を焼き滅ぼすことも厭わない激しい愛」といったことを表す。きちんと追ってはいないが、「空襲の炎の中で自分を逃がすために手を離した母」と「弥生の世のために滅亡を受け入れた縄文の人々」という結び付きのようだ。

「あけぼの」「眞晝」「夕映え」について

時刻の順序は順序として、詩において「生命/どこまでも」と「生命/いつまでも」の差が現れるのは5・6の部分なのでここから見直してみる。詩が「私」の生の時間を表すならば、6に現れる「炎」は「私」の時間の終わりを表すだろう。この「炎」は先に見た「世界を焼いた炎」に通じる。すなわち、「『私』の目に見える世界を焼く炎」となる。そして、この「炎」の先には(縄文の先に弥生が来たというように)後の世がある。

この図式を元に1・2の部分を見るならば、「あけぼの」の水平線の向こうには「夕映え」を見る先の世の人々がいる。「あけぼの」とは先の世の人々を焼く「炎」であり、先の人々が焼かれることを受け入れることによって、「私」の時間、「私」の世界が始まる。詩が「ふるさとよ」と呼びかけるのもこのことによる。生命は、自身を焼く熱情を持って託されたものだからこそ「どこまでも」と望まれるものになる。

3・4の部分はそうして始まった「私」の生、「私」の世界を描く。託されて世界に生きる自身の喜ばしさが、ここでの「生命/どこまでも」の意味となる。

5・6に戻る。後の世の人々はこの「私」の生を超えていく人々であり、「私」はその人々のために「炎」を受け入れるものである、このことが「超えながら 超えられながら/滾っている」と語られる。「生命/いつまでも」の言葉は、「私」の生の終わった後の人々、後の世に向けられる。