合唱団響 演奏会2019

2019年9月8日 サントリーホール大ホール

台風で帰れなくなるのではないと不安を感じながらも聴きに行った。

技術や演奏に不満はないにも関わらずどこかすっきりしない、というのが全体の感想だった。どれだけ贅沢なのかとも思いはするけれど。

モンテヴェルディがその始まりだったように思う。70人もの合唱と、リュートとチェロ、というところに、とにもかくにも歌いたい、一方で演奏するからには本格的にやりたい、というスタンスの狂いが見えて、演奏への信頼感が薄くなった。

ブラームスの『愛の歌』は立ち上がりやや音が鳴り切らないように聞こえた。テンポが速く子音が多いためだろう。6曲目あたりから改善され、表現の幅も大きくなったと思う。

田園に死す』は先にCANTUS ANIMAEの演奏を聴いていたが、合唱団響の方が訳の分かる演奏だったと思う。

『海』は案外どうということもなく歌いこなした、という風に感じた。実のところ、やや退屈だった。

この全体に、プログラムの「市民合唱団」ということが良くも悪くも関わってくる。

モンテヴェルディを演奏することについて、聴く側からすれば今回のスタイルにはあまり意味がない。合唱としては良いがモンテヴェルディとしてはあまり良くない。見方を変えれば、歌い手には意味があるが聴く側にとっては微妙、ということになり、そこで「歌い手には意味がある」から、で演奏してしまうところが「市民合唱団」であることの価値だ、と見ることはできるかも知れない。またブラームスで言えば、ドイツ語で歌う難しさに対して開き直ることで、所詮ネイティブではない聴き手に訴える演奏になった、ということ。これも、楽曲よりも演奏者と聴き手を上に置く点で類似のことだっただろう。

三善晃については、これが逆に働いたかも知れない。『田園に死す』では、指揮者の下に音楽の全体が従うことで曲自体の内面性が明確になり、一貫した演奏にはなった。が、『海』も含めて、指揮者が正解であり合唱はそれに対して80点くらい、というような、圧倒的な指導者の力と権威に演奏者が服する関係になってしまっていたように思う。これもまた、「市民合唱団」の必然的な一面ではあるだろう。