『ノエシス』の解説文について

1997年に三善晃の『ノエシス』、武満徹『トゥイル・バイ・トワイライト』、吉松隆『朱鷺によせる哀歌』、松村禎三ピアノ協奏曲第2番』というCDが出ており、当時の興味としては三善晃管弦楽曲松村禎三のピアノ協奏曲、ということで購入した。このブックレットが片山杜秀なのだが、作曲者が初演時のプログラムに寄せた文章を引用した上で、こんな風に書いている。

 要するにこの曲に於いては、各パートの音響は、基本的にまったく相互の脈絡なくバラバラに存在しているもの(ヒューレー)と、作曲者にはイメージされており、作品は、そのバラバラなものに生気(ノエシス)を吹き込み、何とか互いを有機的に統合しようとする試みとして展開するのである。

プログラムから引用されている文は次の通り。

リュートオーボエの、クラリネットの、金管の、鍵盤楽器の、弦の、それぞれの群、その他、個々の楽器の音楽は、音が(その空白を含めてア・プリオリに)時間を持っているという意味で私の存在感覚に属するが、志向性を持たない。フッサール流にこれをヒューレーとするならば、それらが一個全体の持続のために存在し始めるには、そのための契機あるいは生気をあたえるノエシスが、やはり私の体験裡に、しかし対自的な意識作用として、つまり異常な空想の体験として、なければならない。

これとほぼ同じ文が『遠方より無へ』の『ノエシス』の項に含まれている。これもプログラムの文章のはずで、両者に(「ア・プリオリ」の・の有無など)僅かな異同があるのは校正の前後のようなことかも知れない。

『遠方より無へ』の方には、前段として『レオス』(1976年)の改作(を行わなかったこと)についての話があった。

元来私は加筆訂正のできない性分で、今回も、二年前の表象に手を出すことに、次第に心がとがめられてきた。やはり、すべての音が、それぞれのありようでそこにあり、そこから生まれる投企は別のところにある。その投企を追うことは、別の創作でしかない。迷いだった。

この事情は『管弦楽のための協奏曲』について書いていることに近いと感じる。長い引用になるが、

たとえばこの曲でも、指向性をもった音程関係が統一原理のように働く。これは、前述の「試み」のためには、むしろ採るべきではない手段だったかもしれない、が、それを選ぶことは、この作曲期間中も、私には、やはり自明なことだった。

(譜例を挟んで)

譜例の、進行する諸和音がその統一原理となるのだが、結局これらは、発想に対する内省の結果にすぎない。

そして、そのような意識作用それ自体の性質から、ある秩序への好みが生まれるものだろうか。この「結果」はそのまま、ある種の存在感の充足に結び付く。これは、抗し難い力だった。たとえばC和音の中心感、またA→Dの進行やACへの展開は、私には、まるで和声の強進行のような圧力をもっていた。

 雑にまとめてしまうと、やろうとしたことと出来上がったものがずれてしまう、ということのようだ。三善晃の中では自然な感覚として「音はこのように振舞う」ということがあって、それが作曲の場面では「音はこの音楽であればこのように振舞う」という風に現実的な条件のもとで定着され、後から見てもその自然さは動かしようがないのだが、一方でそれらの音は「この音楽であれば」ということで実現したはずなのに出来上がった曲は「この音楽であれば」という「音楽」とは違うものになってしまっている、という話のように思える。

三善晃自身の文章の内容だが、『ノエシス』では作曲意図としての「音楽」なしに、各楽器群の音が「このように振舞おうとしている」というところから、ならば「そのように振舞うべき」とする自身の意思があるはず、としてその意思を求めるようにして作曲した、というように書かれていると思う。