死ぬほど長く暑い夏の終盤に

 

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お江戸コラリアーずの演奏会があったために、しばらく『縄文土偶』について考えていた。詩句からの連想は『縄文連禱』や『虹とリンゴ』にも飛んで、いくつかその中から気づくこともあった。特にここの関心の中心である『虹とリンゴ』は音と詩を含めて何度も頭をよぎり、そして急に涼しくなり夏の終わりが近くなったところで不意に、何か得心のようなものがやってきた。

 

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長い間、『夏』はどう思えばよいか分からない、不思議な曲だった。無邪気にも見える詩の言葉とそれが示す事象の恐ろしさが、明快な調性感とそこからの露骨な逸脱により描かれる。それがあまりに明らかなために、そのどちらも演奏者が表現するまでもないものになってしまう。では、演奏者が表現するべきものは何なのか。

それは、描かれた光景の美しさではないか。『夏』の旋律をなぞる内にふと、そう感じるようになった。「かかっています」の半音の下降や「昼の星」の音に、感嘆と憧れと諦めのような色合いが、気がついてしまえば初めから、隠されることなく表現されている。これが歌によって表現されるべきなのではないか。

このように書いてみて、何だかぞっとするような気分になる。これはとんでもない詩と曲なのではないか、と思う。

詩に引き戻して考えてみる。詩の中で、宗左近にとっての地球が「焼きリンゴ」であるのは了解するとして、「溶けた雲」「昼の星」「輝く風」はどう見るか。「溶けた雲」に対して、自分は原爆のきのこ雲を連想した。「昼の星」はミサイルだろうか。「輝く風」は戦闘機の引く飛行機雲だろう。この連想が適切かも問題だがひとまずこのような見立てで進めるなら、つまりこうしたものが詩の中では美として受け止められているということになる。

ここから例えば、宗左近三善晃の「反戦」はどこに行った、という話にすることもあり得るかも知れないがさておき、先の連想で上げた3つが宗左近の体験からは外れているように見えることについて、考えなければならない。宗左近の詩の中の論理は、宗左近の炎の体験を否定できないことが基盤になっているので、その外にあるものは宗左近にとって触れられないものになる。「溶けた雲」「昼の星」「輝く風」は『夏』に言う「宇宙のあちら」(とは私たちにとっては「こちら」)のものであって、だからこそ恐ろしいものさえ輝かしく美しいと感じられるのだろう。

このような内容の表現は、それまで三善晃宗左近の詩により作った曲にはなかったように思う。そしてこのように見たとき、『シャボン玉』の問いかけはより痛切な意味を持つようになる。