『波の墓』(荻久保和明『縄文』)

荻久保和明の『縄文』は『透明』『曙』までで満足で、『行進』は空騒ぎ、『波の墓』はだるい、という印象だった。今回三善晃の『詩篇』を繰り返し聴いた際、詩の確認のためにCD『縄文/荻久保和明 作品集』のブックレットを取り出し、ついでなので荻久保和明の曲も聴いてみた。特に愛着もないので感想を適当に書いてみる。

今回聴いていて、ルネサンスあたりの宗教音楽のイメージが、と言ってその辺も不案内だが、何となく重なった。ホモフォニックな部分が少なく、和音の色合いもなかなか明確にならないことが原因だろうが、この禁欲的な雰囲気は慣れてくると悪くない。

全体としては、延々と曲が続く内、いつの間にか得体の知れない場所に連れていかれるような気分になる。暗い場所に一人で立ち、それを受け入れなければならないといった厳しさを感じる。荻久保和明の詩の読み込みについて考えてみたくなる。

むしろ旋律が、うかつにすると俗っぽさに流れる印象がある。一々ひやりとしながら聴くのも面倒臭く、また時に身も蓋もない嘆き節に聞こえて白ける場合がある。最も危険なのが冒頭のソロによるヴォカリーズで、実演であればここで聴くか寝るかが決まる、というくらいのところだと思う。

上記のCDのついでに、youtube男声合唱版も聴いてみた。こういうものかと思ったのが、上に書いたような禁欲性が、むしろ薄く感じられたことだった。当然ではあるが混声に対して音域が狭く音がより密集するために、声部間で和音の表情が発生してしまう、ということのようだった。

ともあれ、これで残るは『行進』、ということになった。『行進』の意義は今もあまり感じられていない。youtube山田和樹が暴れているのを見ただけに止まっている。