『王孫不帰』の詩と曲について

『王孫不帰』の詩について、楽曲とも見合わせながら考えてみる。
詩の全体は3つの部分、第一に過去から現在に至る状況を語る部分、第二に語り手の意思が表れる部分、第三に木を樵るまたは機を織る音、から成ると見ることができるだろう。冒頭から「家に居て機織る媼」までが第一の部分、「こともなく〜」から「耳をかせ」が第二の部分、「丁東」から「はたり ちやう」が第三の部分ということになる。演奏者にとっては、各部分の言葉をどのような立場で発するかが問題になるだろう。
曲での扱いを見ると、第一の部分は詩の大半を占めており、曲の『Ⅰ』から『Ⅲ』の半ばまでがこの部分の言葉によっている。一方、第三の部分は詩の最後に置かれているが、楽曲では『Ⅰ』で現れ、『Ⅱ』で一旦途切れるが『Ⅲ』で再度用いられる。第二の部分は『Ⅲ』の後半に、語り続けてきたことの総括のように現れる。

詩の展開について。

かげろふもゆる砂の上に
草履がぬいであつたとさ

七五調のリズムと「とさ」という語感は、「お話」としての距離感、語り手との間合い、また幾分かののどかさを感じさせる。「あったとさ」の言葉は何かの物語がが終わったようにも感じられる。

海は日ごとに青けれど
家出息子の影もなし

引き続き七五調ではあるが始めの七、例えば「かげろふもゆる」が4+3であったのに対し「海は日ごとに」「家出息子の」は3+4となり、半拍の空白が感じられる。「海は日ごとに青けれど」「家出息子」にはそれ以前から引き続き幾分かの緩やかさを感じる。

国は亡びて山河の存する如く
父母は在して待てど

ここで調子が大きく変わる。「国は亡びて」が3+4のリズムを引き継ぐが、その後に続く「山河の存する如く」は七五調から外れ、「父母は在して待てど」では五七の配置となる。

住の江の 住の江の
太郎冠者こそ本意なけれ

繰り返される「住の江の」の詠嘆のような調子から、「住の江の太郎冠者こそ本意なけれ」が導出される。この五七五は、まるで巨大な石碑のように感じる。
ここまでで『Ⅰ』が終わる。
『Ⅱ』では、「住の江の〜」から、「王孫は/つひに帰らず」までが歌われる。

住の江の 住の江の
太郎冠者こそ本意なけれ

鴎は愁い
鳶は啼き

若菜は萌ゆれ春ごとに
うら若草は野に萌ゆれ

王孫は
つひに帰らず

『Ⅰ』で扱われた部分は2行ごとに言葉が一つのまとまりをなし、次の2行は別のまとまり、となっていた。対して『Ⅱ』では「鴎は愁い〜つひに帰らず」の6行が一つながりになって、「住の江の〜」を説明する。

山に入り木を樵る翁
家に居て機織る媼

『Ⅲ』に入り、「在して」とだけ語られた「父母」が登場する。『Ⅰ』に現れた「丁東」「きりはたり」の意味もここで明かされることになる。曲はその後、ここまでに語られたことを回想し、状況の全体像を確認する。

こともなく明けて暮る
古への住の江の

浦囘を
想へ

後の人
耳をかせ

ここ、つまり「浦囘を想へ」「耳をかせ」が、語り手の主張になる。「耳をかせ」の指す内容が最後の4行になる。

丁東 丁東
東東

きりはたり きりはたり
きりはたり はたり ちやう

こうして、老いた親の営みの音が最後に置かれる。全てが語られた後に、この音がどのように感じられるかが、『王孫不帰』という曲の意味になるだろう。