さらにつたない話

『三つの夜想』の前後の変化は「痛み」の感覚の有無である、と以前書いたけれども、気分としてはその続きのようなもの。

「共感とは、痛みに対してするもの」というのが、およそ自分の思いつきのようには思えないので、どこかで似たような言い回しを見たことでもあったのだろうが、そう言ってみると結構正しそうな気がした。
そこで『夜想』以前以後の三善について見てみると、「痛み」があるためにかつての曲は聞き手を容易に共感に導き、新しい曲は「痛み」が明らかには感じ取れないので共感しづらい、と言ってしまえそうに思える。
この違いを、三善晃は技術的に書き分けられるのだろう、と、『地球へのバラード』を聴いていると思える。

『ギターのための 五つの詩』と、『田園に死す』、『三つの夜想』あたりが、近い関係にある曲のように感じる。「痛み」の感覚が、これらの曲でもっともあからさまに書かれていると思う。そのようにして、作品に「痛み」を混ぜ込むことで、三善は共感を通じて、聴く者を支配してしまう。
そうして、聞き手を引き連れて、行き着く先には何の保証もない。
『五つの詩』の終曲は、題名を『家出』という。

井阪紘がCD『黒の星座』のプロデューサー・ノートで「デモン」と言っていたのも、人の心をもて扱うこの手管(というかそれが手管に見えてしまっているということ)のためだろう。