『北の海』(『三つの抒情』)

日本伝統文化振興財団のCDの解説の文章は、たぶんビクターから出ていた頃と変わっていないので、読んだ人も多いだろうと思う。「私にとって、声とは」というあたり。これと『三つの抒情』について、何の拍子にか忘れたけれども納得したような気がした。
詩が女性の声で語られる(歌われる、か)ときに、何か感ずるところがあれば、それが詩の意味である、ということだろう。詩という部分をゆるく考えるなら、私の心を女の人の声で言い当てられたい、と。
ならば、『三つの抒情』の詩句は直接三善自身の心情なのだろう。

『北の海』が人魚の歌である、というのは船山隆の古い文章で見たのだと思うが、その本が以前に置いてあった図書館からなくなっていたので確認できない。(確か三善の『北の海』を激賞して多田武彦の同じ詩による曲をひどくけなしていた)そこでは、中原中也には人魚の声が聞こえてしまっていたとか書いてあった気がする。たぶん、それは正しいのだと思う。つまり、三善の『北の海』は、人魚の歌を聴いてしまう男が、海に向かって「あれは人魚ではないのです」と言っている。
なぜ、ということについては大して考えていない。まあ人魚の歌なんか聞いていては生きていけないしな、と思う程度だ。
合唱は、それを嘲笑する。男に今も歌が聞こえているのを知っているから。そして、海を背を向けようとする男が結局は人魚の海に帰ってくることを見抜いている。最後の「らっららっらららららっらら」はその声だ。
たぶん、この曲を「呪ってやる呪ってやる」と歌うのは間違いだろう。海に人魚はいて、呪いはない。この曲の魔性は呪いのためではなく、人魚が男の心を見抜くからだ。