今度のCANTUS ANIMAEのコンサートには行けそうにない

CANTUS ANIMAEが『歌集 田園に死す』を演奏するということで非常に興味はあるのだが。

田園に死す』はピアノ2台に対して合唱は割合簡素で、いくらか歌曲に近い印象がある。ユニゾンや、和音を伸ばしている部分も多い。聴く分にはそれで合唱が物足りない訳ではないのだが、アマチュア団体の練習だと扱いに戸惑う面もあるかもしれない。

この曲が東京混声合唱団の委嘱作品(それも楽譜によると「第100回」定期演奏会の)だというのも興味深い。あの東混であり、第100回であり、と思うとき、当然期するものがあったはずであり、三善晃にとってそれが何だったのか、ということが気になる。

その他、信長、森田についてはあまり知らないのと、信長貴富についてはあまり好みでないという印象があり何とも言えないが、芥川也寸志の『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』は聴きたい曲だ。この曲は八村義夫が非常に高く評価していた。少し長く引くが、八村の文章を集めた書籍『ラ・フォリア ひとつの音に世界を見、ひとつの曲に自らを聞く』には次のように書かれている。

才能というものはおそらく外的には最も目だたない個所においてつかわれ、その堆積が最大限の効力を発揮するようにしておくのが、才能の、いわば基本的な使い方なのだ。この曲は、それが顕示的に現れているよい例だ。そういう作品はそうたくさんはない。シルヴァーノ・ブソッティの諸作品や、林光の《ゴールド・ラッシュ》、《不死馬》やジェズアルドのマドリガルのいくつか等が、ぼくがそのように感じているもののリストであり、音楽の様式や語法と無関係に、才能の冴えを聴くものとして存在している。《お天道様、ねこ、プラタナス、ぼく》も、そのリストに加えるのに躊躇しない。

こんな文章を読んだので気になって、楽譜もCDもかなり以前に購入していた。入手できる演奏は古いもので半音の動きが多いこの曲をそれほどうまく歌えていないのだが、それなりに訳は分かるし、八村の言うことも分かる気がする。