「遠方より無へ」とは

『遠方より無へ』とははじめ二台のギターのための『プロターズ』の副題で、その後三善晃が自身の書いた文章をまとめた書籍のタイトルとされた。

気分くらいは分かりたいということで雑な話をするが、「人は死ねば無になる」と言ってみたときに「まあ、そうかな」と思う場合と「冗談じゃない」となる場合がおそらくある。話の速い所で宗左近を取り上げると、「できれば、死者などと呼びたくない。殺されたために、わたしのなかの生者となっている。」(『縄文』の覚書)のように言っている。つまり、「死んだけれども無になっていない」という捉え方がありうる。『変化嘆詠』の変化たちもそうしたものだし、『レクイエム』というタイトルも、そのような感覚から来ているのだろう。そして、無になっていないならどこにいるのか、「遠方」に、というわけだ。また宗左近だが「きみたち 鏡の底にいるのか」というところだ。

『変化嘆詠』の解説で「不在へと解き放つ」という言い方をしていたが、つまり「遠方より無へ」とはだいたい「無になれない死者たちを不在へと解き放つ」という話になる。これが成立するなら、『レクイエム』の死者を代弁するというしでかしに自ら決着をつけることができるはずで、70年代には『プロターズ』や『変化嘆詠』など、こうした問題意識による曲が幾つも書かれている。

結局のところ、それは不可能である、というのが結論となった。『詩篇』はその結論を受け入れて作曲されたのだと思う。ついでに言うと、谷川俊太郎の詩による『クレーの絵本 第1集』には、この周辺の道理を整理する意味があったのではないかと想像している。

最初に「遠方より無へ」の言葉が付された『プロターズ』について。この曲について感じていることを書いてみると、ギターで弾かれるにもかかわらずこれは音楽ではなく演劇であり、2台のギターは言ってみれば「遠方」氏と「無」氏の役を演じる。その2氏が語り合う場があり、対話ののち立ち去っていく。70年代の三善晃は要するに不可能ごとに挑んでおり、そのために作品は独特の難しさと魅力を備えるようになったが、『プロターズ』はその中でも究極だろう、と考えている。