『ほら貝の笛』

部屋で探し物をしていたところ、思いがけないところから『五つの童画』の楽譜が出てきた。

三善晃のファン、ということで長らくやってきているのだが、よりにもよってというか『五つの童画』のことがいまだによく分からない。もちろん、延々と聴いてきた分だけ馴染んだところはある。

この曲について三善晃自身の書いた文章には、

高田さんの心の優しさの高みに自分の小さい情感をとどかせるためには、私は、一度は「ものたちの虚しい場所」を通らねばならなかった。

 あるいはよく知られた

どの詩にも破滅や絶望、失意の相をもたらしたと思いますが、私は、それらを胎生の糧としない愛を信ずることができません。

という言葉がある(『遠方より無へ』)。楽曲に上手く近づけないとついつい言葉に寄りかかってしまい良くないのだが、これらの言葉も別に分かりやすくない。特に後者は度々引かれるけれど。

この言葉について考えながら、ふと『水のいのち』の『雨』(高田違いだが)の詩句を思い出した。

 降りしきれ 雨よ
そして 立ち返らせよ
井戸を井戸に
庭を庭に
木立を木立に
土を土に

 と、この詩は語り、歌う者聴く者はそこに何かを得心するのだが、一方『ほら貝の笛』が語るのは

いま

ほら貝はほら貝になった

 

いいえ

ほら貝

それは

お前の中で

コオロギが鳴いているのです

立ち返るところなどない。例えばこうしたことが、「ものたちの虚しい場所」ということだろう。

「高田さんの心の優しさの高み」と、『雨』への得心とは全く異なるが、いずれにも背後に隠された信頼のようなものがあり、三善晃はその信頼のようなものの限界を見ないではいられなかったのだろう。