CANTUS ANIMAE と合唱団響の『田園に死す』など

OMPのCDでしか聴いたことのなかった『歌集 田園に死す』を1年の内に2回、生で聴くことができた。そこで、この曲のやっかいさについても色々と思うことがあった。

1回目はCANTUS ANIMAE。 

tooth-o.hatenablog.com前ステージが『三味線草』だったが、森田花央里の強烈に内面的なピアノに圧倒された。休憩が挟まったものの、直後に聴く『田園に死す』は相対的には散漫に聞こえてしまった。雨森文也は合唱が歌わない部分はピアニストに任せてしまうのだが、そのことが『三味線草』と『田園に死す』の両方で問題になっていたようだった。『三味線草』では森田の集中力に合唱は引っ張られながらも追い付かず、合唱に茫洋とした印象が残った。『田園に死す』では2台ピアノの顔を見合わせるようなアンサンブルと陰惨な歌を歌う合唱の表情とが調和していなかった。どちらも、このような不調和に対処し筋の通った演奏にするのは指揮者の役目だったと思う。

2回目がこの間の合唱団響だった。 

tooth-o.hatenablog.com合唱団響の方が一貫性のある演奏だったと思う。合唱も2人のピアニストも栗山文昭に統御され、その中で特に浅井道子のピアノは曲の表情を深く掘り下げていた。

このように書けばCANTUS ANIMAEより合唱団響の演奏の方が良かったという話に見えるだろうし、実際そういう感想ではあったのだが、それだけでもない。いずれも満足はしなかったし、その上で、それぞれの演奏の先により良いものを求めようとしたならば、CANTUS ANIMAEの方が可能性があるような気がしている。合唱団響の演奏は結局栗山文昭の風格みたいなものの内に収まってしまいそうなつまらなさがあって、そこを越えるのは難しそうに感じる。CANTUS ANIMAEにしても『三味線草』のような頭打ち感はあるが、『田園に死す』について言えば2台ピアノと合唱との関係を新しく見直せる可能性はありそうだった。