『梟月図』のことを少し

鈴木輝昭は興味があると言えばある、くらいの関心の持ち方しかしていない作曲家で、合唱曲のCDを数枚持っているが器楽に関しては全く知らず、合唱曲でもよく聴くものは少なく、好きだと言えるのは『梟月図』と、あとは『女に』の第1集・第2集くらいだ。

『梟月図』は選ばれた詩に対応して明瞭な形式感をもち、見通しの良さと新鮮さ・鮮やかさがある。所有しているCD『ティル  ナ ノグ 鈴木輝昭合唱作品集』を時々取り出して聴くのだが、ぴしりと形が決まって心地よい。

形式の強さは透明感のような印象をもたらし、詩と曲の印象を結び付ける。荻久保和明の『透明』などはこの感覚に近いが、まだ幾分脂っこさが残る気がする。

楽譜の序文などでの「中有」のような言葉の扱いを見ると、実はあまり詩の内容が分かっていないのではないかという疑念が少しあるのだが、それほど問題にならないような詩の選択になっているように思う。それよりも、言葉のイメージの素直な延長として音を選んでいる感じがあり、屈託なく音に気分を託せるような気になる。この曲に感じる好ましさの一因だろう。

宗左近の詩による曲は多数あるが

詩句がかなり大胆にカット・編集されることが多い。

三善晃の『詩篇』には「はじめとおわりの・鏡の雲」という部分があり、次のように歌う。

啓ちゃんもとめて 花いちもんめ

匡ちゃんもとめて 花いちもんめ

哲ちゃんもとめて 花いちもんめ

ゆりちゃんもとめて 花いちもんめ

章ちゃんもとめて 花いちもんめ

誰? と思うのだが、もとの宗左近の詩「鏡の雲」にはさらにそれぞれのフルネームと何歳でどこで亡くなったかまで書かれており、そこまでは作曲されていない。

『縄文土偶』では細かいところで詩句が帰られていたりするし、『海』では擬音の「ワオォン ヅワァル」は現れず、終結部は「地球よ 生命よ ああ世界よ 夢の炎よ」と聞こえる。案外忠実でないのだった。

荻久保和明の『縄文』では、特に『行進』で歌われない言葉が多くある。例えば

落下傘兵が落下傘を追いかけている

夢の底なんかであるものか

飛行機雲が飛行機を追いかけている

という詩行の内、「夢の底なんかであるものか」だけが歌われてその前後はない、というようになっている。こうした詩の言葉の取捨については荻久保和明には自分の基準があると話しているが、その結果詩の眼目が分からなくなってしまうところはある。宗左近の詩以外でも、荻久保和明は言葉の上で重要なポイントをカットしてしまうことがある。そのような言葉は割とエモーショナルでないからではないかと思う。

松本望の『二つの祈りの音楽』のカットも楽譜の後ろに載せられた詩を見ると随分だな、と思う。歌われない詩句は薄く印刷されていて、『夜ノ祈リ』では入り組んでいて目がチカチカする。言葉の選び方としては、具体性や生々しさがあるような言葉を回避しているように見える。『永遠の光』ではラテン語典礼文に宗左近の詩3篇から採られているが、特徴的な言葉が削られていたり、本当に一部しか使われていなかったりして、実はあまり宗左近である意味がないようにも感じる。

なぜこのようになるのか、宗左近の詩を少しだけ読んでみた程度だが考えてみた。宗左近の詩は結晶のように対称性の強い言葉の配置をする場合とほとんど散文のような場合、意味不明なくらいまで抽象的な場合とただ事実を羅列したような場合、独自用語にしか見えない場合と一般的過ぎるくらい一般的な言葉を使う場合が幅広く現れる。このため、音楽にするのに向いた部分と向かない部分が一篇の中にもあるからなのではないか。

 

『鬼子の歌』(片山杜秀)の三善晃の章

雑誌連載を少し覗いたことのあった、片山杜秀の『鬼子の歌』が本にまとまったということで買ってみた。とはいえそれほど興味があるということでもなく、とりあえず最初の三善晃の章だけざっと眺めてみた。中心になるのはオペラ『遠い帆』の話で、ひと言にまとめると、この作品は三善晃が自身を支倉常長と重ね、自分の人生を描いたものである、という話だった。

知らない話が色々と出てくるのは多少の興味は引かれる。『赤毛のアン』の放送当時のことや、『オンディーヌ』の話、『中新田縄文太鼓』の話などなど。記録映画の音楽のことまで出てくると、入手しやすい音源しか知らない身にはどうにもならない。が、興味深いのはそういった部分くらいで、正直なところ手っ取り早いお話を書いたくらいのものに自分には思えた。

文中、片山は死者との断絶の話をし、また三善を「永遠の少年」と言ったりする。子供の声の特権性のような話もする。こうした点からは、片山の把握する三善晃の問題意識は『詩篇』までで止まっていること、人生観については80年代あたりで止まっていることが感じられる。このような認識を90年代に押し付ければ、だいたいこのような話になるのではないか。

「死者との断絶」というような課題は、「どうにもならない」という結論が出され、それによって『詩篇』が書かれた、と思う。この問題は『レクイエム』に対する自らの返答として追い続けられたもので、そのままであれば作品としては成立せず、否定的であっても答えを出したことが、『レクイエム』に続くものとしての『詩篇』を作曲することにつながったのだろう。

また、「永遠の少年」だが、お話にしてしまうなら三善晃は1985年に青春の総決算をして、以後少年を脱した。これは『響紋』の前後、83年の『五つの唄』で宣言され、『地球へのバラード』で技術的な解決が見通され、84年の『田園に死す』、85年の『五つの詩』、『三つの夜想』で徹底的に描かれ、『王子』の完成により決着が宣言された、という風に考えている。

自分の方が個人的な思い入れで変な話をしている気もするが、片山の話はそれほど適切とは思えない、というのが軽く読んでみたところの感想だった。

『夜ノ祈リ』

死者の名で言葉を発する、というのは基本的に禁じ手というか、「生きとるやんけ」とか突っ込みが入るところだろう。三善晃はその決着のために12年くらいかけている。

『夜ノ祈リ』という詩が片仮名書きなのはこの点にまつわるトリックという面がある。

 

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 「埋メラレテイル死者タチノ」夜の祈りの聞き書きであって、自分の言葉ではない、さらに言えば自分を責める者の言葉である、という意図だろう。

歌声には平仮名も片仮名もないので、宗左近の企みも見えなくなる。結果、『夜ノ祈リ』は被害の怨念を苛烈に吐き出すような曲となっている。この曲は本当にその点だけが突出しており、余剰な色彩がない。そして非常に明晰な音でそれが響く。詩句の選択についてもどろりとした感触のある部分は除かれている。

演奏者はどのような立場となるのだろうか。ある種の演技として言葉を発することになるだろうか。その間合いは演奏の力を弱めるだろうが、見境なく詩句と一体化するのも不適切なように感じられる。

『曙』(荻久保和明『縄文』)

荻久保和明はそれほど好きではないのだが、およそ組曲中に1か所くらい異常に素晴らしい部分があり、ほとんど退屈しながらその1か所のために価値のある曲となってしまうようなところがある。

『縄文』も、大方はくどさとこけおどし、というふうに聴いており、いくらか好きといえるのは1曲目の『透明』くらい、『行進』はどうでもいいし、『波の墓』もうんざりする。『曙』の印象もだいたいそんなものだが、それでも『縄文』の最高の部分は『曙』の最後だろう。

宗左近について、空襲と母親の話は度々語られる。荻久保和明の『縄文』もこれらにまつわる曲だが、中でも『曙』は心理的な落差の大きい部分を描いている。とはいえそれなりに長い曲の終結部に至るまで延々シチュエーションの設定に費やしていてやや冗長に感じる時がある。そのようにしてたどり着いた最後の部分に現れるのが、「舟はそこに」の言葉だ。

空襲で逃げ惑い炎に取り巻かれ、母親に火が燃え移り、恐慌と混乱の最中に、ふと見えてしまう。「あ、あそこから逃げられるな」と。

表層は『行進』のような追い立てられた狂気のようなものが荒れ狂っていながら、その背後ではこの怜悧な認識と判断が働いている。恐ろしい瞬間が、最後の一行に表現されている。そして荻久保和明の視線はこの瞬間を射抜いている。撃ち込まれるピアノが不穏さを掻き立てる中、合唱は異様な穏やかさで歌われる。

荻久保和明の『縄文』で、優れているのは本当にここだけだと思っているのだが、しかしこの部分だけのために『縄文』は傑作であり、荻久保和明は偉大な作曲家だと言わざるを得ない、とも思う。