『二つの祈りの音楽』のこと

松本望の『二つの祈りの音楽』は、初演からそれほどの間もなく、実力のある団体が次々取り上げるようになったようで、自分もすでに2度、実演に触れる機会があった。CANTUS ANIMAEに松原混声合唱団という、あるいは羨む人もあるだろうという2回ではあるのだが。

 

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 松原混声合唱団についてはこの演奏会のCDも購入した(一番の目当ては『変化嘆詠』だが)。聴き返せば美しく感動的ではあるのだが、警戒心が先に立つ。面倒臭いことを言うと、この曲を歌う人はどのような立場として歌っているのか、ということが気になってしまうのだ。

例えば『夜ノ祈リ』で「敵 攻メテキマシタ」と歌う。世界を見渡せばそのような状況はあるのだろうが、歌い手はそれを語る立場か、というと、どうだろう。

『夜ノ祈リ』の詩は、題に「埋メラレテイル死者タチノ」と付されている。当然、この詩が「埋メラレテイル死者タチノ」言葉であるという意味だ。片仮名書きはそのことを明示するためだが、それを明示するのは宗左近の場合おそらく、埋めたのは我々である、という意味を含むだろう。

生と死と創造と――作曲家・三善晃論/丘山万里子 -11

この 構図が決して単純でない詩を歌う音や声が、本当にこのようでいいのか、演奏を聴いてみてもまだ得心できていない。

『永遠の光』では、ミサ典礼文と宗左近の取り合わせが適切と思えない、と以前書いたことがある。「神」の意味が結局は一貫しないだろうし、そこは現実の中でまさに争いのある、時に命もかかってしまう点ではないのか、と思う。また、詩の中でも宗左近しか使わないような言葉や論理の構造が、こちらの曲に取り上げられた言葉からは抜け落ちているように思える。

こう言っては何だが、合唱で人を感動させるのは案外難しくなく、この曲で聴く人を感動させるのはさらに簡単だろう、と思う。そうであれば、感動を通じて聴き手に伝わる言葉、声、音楽が何であるのかは考えてみる必要があるのではないだろうか。