なにわコラリアーズのコンサートについてもう少し

 

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 この演奏会で印象的だったのが『クレーの絵本 第2集』の4曲目『《まじめな顔つき》1939』と、『五つのルフラン』の『鉾をおさめて』だった。昔少しだけ練習したことがあったのだが、『鉾をおさめて』はリズムが相当難しい曲で苦労した。なにわコラリアーズはこの曲を自然に、力強く表現しており、当日の曲目でも一番良い演奏だったと思う。

『まじめな顔つき』は、詩も旋律も皮肉っぽい印象しかなかった曲だが、今回思いがけず、下の3声が非常に優しく温かい音を鳴らしていることに気付かされた。この曲の可能性として、こうした二面性の表現があることを示していた。組曲の全体的なテーマを考えるとき、このことは重い意味があるように感じる。

 

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この曲の優しさは、「まじめなひと」として生きるしかない、そのような生に向けられる。そうした生の時間が、最終曲『死と炎』で「たずさえてゆくことができない」ものとして歌われるのだろう。

男声版『三つの抒情』のこと

 なにわコラリアーズのコンサートで福永陽一郎編曲の『三つの抒情』を聴いた。

 

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 全般に高声優位、かつかなり無反省に歌っている、と感じていた中で、『三つの抒情』だけは比較的落ち着いた音が鳴っていた。正直「何だお前らさんざん隙に貼り上げといて。今こそ気合入れて吠えろよ」くらい思って聴いていたのだが、なんとも穏当な男声合唱、という演奏になっていた。このことについて、一つ思い当たることがあった。

確か岩城宏之の本だったが、高橋悠治による何かの曲のオーケストラへの編曲についての話があった。何でも、非常に響かないアレンジだったということだった。そのことについて岩城は、自分の方がオーケストラの音を知っているし、良くなるアレンジを書ける、しかし、と話を進める。その響かない編曲の中に高橋悠治の創造があるのだ、というように書いていたように記憶している。

福永陽一郎の編曲についても似たような事情ではないか、と思う。男声合唱として普通に鳴らせるように音を移していった結果、男声合唱団が演奏しやすい曲になったのだろう。

ここからさらに、思うことが二つある。一つは、三善晃は和音がどれくらい響くべきかを精密に計って音を配置していたのだろう、ということで、その行き着くところとして『その日−August 6−』の「わたしは」以降がある。今回『三つの抒情』以外の曲について、おそらく普段と同じように歌った結果がパート間のバランスの悪さで、三善晃は難しい、という話になるのかも知れない。

もう一つが、男声合唱としての『三つの抒情』とは何なのか、ということで、今回のパンフレットを見ると指揮者も相当このことを考えたようだった。実際の演奏は大方、女性が女声合唱を歌うような歌い方、という印象で、男が歌う、ということの意味は回避されていたと思う。

なにわコラリアーズ  オール三善晃コンサート

平成31年1月12日 紀尾井ホール

  1. 『三つの時刻』
  2. 『クレーの絵本 第2集』
  3. 『縄文土偶
  4. 『五つのルフラン』
  5. 『遊星ひとつ』
  6. 『三つの抒情』(福永陽一郎編曲)

有名な男声合唱団であるなにわコラリアーズによる、三善晃の作品を集めた演奏会。各曲はそれほど長くはないのでコンサートの演奏時間としては案外普通なのだが、内容的にはちょっと負担が大きかったかも知れない。初めて実演に接する曲が多く、その点では興味深かった。

演奏は、魅力的である一方、色々と問題もある、というものだった。良いと思えたのは演奏が今この場で行われている感覚、練習で固めたものをただ再現するような退屈な完成度とは違う、その時点その時点で意図を持って音を発するから、聴く側も今その時に音を聴かなければならないという演奏のあり方だった。一方で、ではそのような演奏を通じて何が演奏されたのか、というところにはやや疑念のようなものもあった。「曲のこの部分はこれを表現しているはずだが、演奏はそれをしていない」というような気分になることが何度かあった。また、このような演奏の指向は指揮者とピアニストの間では共有されていたようだが、合唱団にはあまり通じておらず、また指揮もそこを通じさせる技巧はなかったように思う。だから無理矢理全部の拍をひっぱたくような指揮になって肘を痛めたりするんじゃないのか、などと意地悪い感想を持った。

好ましくない面としては、高声側が好き勝手に歌ってバランスが崩れ、バリトン・バスがなにをしているか分からない、という印象があった。ただしこれは単なる無神経とは別の見方ができそうでもあり、編曲の問題も含めて考えてみる必要がある。

また、リズム感があまり良くないと感じた。高声は声が乗り切るために音符の長さを余分に取ろうとするところがあり、一方の低声側は発音をこなすのに苦労して音の長さを保てないことがよくあった。こうしたことから『ケトルドラム奏者』『死と炎』などは大分ばらける感じがあった。指揮者も『だれの?』の複合拍子をあまり綺麗に処理できておらず、落ち着かない演奏になっていた。

これら不安定な部分も含めて、三善晃男声合唱曲の特徴や難しさについて、また各曲の今まで気づかなかった部分について、思うところの多い演奏会だった。

「遠方より無へ」とは

『遠方より無へ』とははじめ二台のギターのための『プロターズ』の副題で、その後三善晃が自身の書いた文章をまとめた書籍のタイトルとされた。

気分くらいは分かりたいということで雑な話をするが、「人は死ねば無になる」と言ってみたときに「まあ、そうかな」と思う場合と「冗談じゃない」となる場合がおそらくある。話の速い所で宗左近を取り上げると、「できれば、死者などと呼びたくない。殺されたために、わたしのなかの生者となっている。」(『縄文』の覚書)のように言っている。つまり、「死んだけれども無になっていない」という捉え方がありうる。『変化嘆詠』の変化たちもそうしたものだし、『レクイエム』というタイトルも、そのような感覚から来ているのだろう。そして、無になっていないならどこにいるのか、「遠方」に、というわけだ。また宗左近だが「きみたち 鏡の底にいるのか」というところだ。

『変化嘆詠』の解説で「不在へと解き放つ」という言い方をしていたが、つまり「遠方より無へ」とはだいたい「無になれない死者たちを不在へと解き放つ」という話になる。これが成立するなら、『レクイエム』の死者を代弁するというしでかしに自ら決着をつけることができるはずで、70年代には『プロターズ』や『変化嘆詠』など、こうした問題意識による曲が幾つも書かれている。

結局のところ、それは不可能である、というのが結論となった。『詩篇』はその結論を受け入れて作曲されたのだと思う。ついでに言うと、谷川俊太郎の詩による『クレーの絵本 第1集』には、この周辺の道理を整理する意味があったのではないかと想像している。

最初に「遠方より無へ」の言葉が付された『プロターズ』について。この曲について感じていることを書いてみると、ギターで弾かれるにもかかわらずこれは音楽ではなく演劇であり、2台のギターは言ってみれば「遠方」氏と「無」氏の役を演じる。その2氏が語り合う場があり、対話ののち立ち去っていく。70年代の三善晃は要するに不可能ごとに挑んでおり、そのために作品は独特の難しさと魅力を備えるようになったが、『プロターズ』はその中でも究極だろう、と考えている。

『二つの祈りの音楽』のこと

松本望の『二つの祈りの音楽』は、初演からそれほどの間もなく、実力のある団体が次々取り上げるようになったようで、自分もすでに2度、実演に触れる機会があった。CANTUS ANIMAEに松原混声合唱団という、あるいは羨む人もあるだろうという2回ではあるのだが。

 

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 松原混声合唱団についてはこの演奏会のCDも購入した(一番の目当ては『変化嘆詠』だが)。聴き返せば美しく感動的ではあるのだが、警戒心が先に立つ。面倒臭いことを言うと、この曲を歌う人はどのような立場として歌っているのか、ということが気になってしまうのだ。

例えば『夜ノ祈リ』で「敵 攻メテキマシタ」と歌う。世界を見渡せばそのような状況はあるのだろうが、歌い手はそれを語る立場か、というと、どうだろう。

『夜ノ祈リ』の詩は、題に「埋メラレテイル死者タチノ」と付されている。当然、この詩が「埋メラレテイル死者タチノ」言葉であるという意味だ。片仮名書きはそのことを明示するためだが、それを明示するのは宗左近の場合おそらく、埋めたのは我々である、という意味を含むだろう。

生と死と創造と――作曲家・三善晃論/丘山万里子 -11

この 構図が決して単純でない詩を歌う音や声が、本当にこのようでいいのか、演奏を聴いてみてもまだ得心できていない。

『永遠の光』では、ミサ典礼文と宗左近の取り合わせが適切と思えない、と以前書いたことがある。「神」の意味が結局は一貫しないだろうし、そこは現実の中でまさに争いのある、時に命もかかってしまう点ではないのか、と思う。また、詩の中でも宗左近しか使わないような言葉や論理の構造が、こちらの曲に取り上げられた言葉からは抜け落ちているように思える。

こう言っては何だが、合唱で人を感動させるのは案外難しくなく、この曲で聴く人を感動させるのはさらに簡単だろう、と思う。そうであれば、感動を通じて聴き手に伝わる言葉、声、音楽が何であるのかは考えてみる必要があるのではないだろうか。