『だれもの探検』について、とりあえず

と言いつつ、『遊星ひとつ』の話から。三善晃が亡くなってそれほど間がない頃に、作曲家らしい方が『遊星ひとつ』の演奏を聴いて「あの音域で音の配置じゃ汚くなるにきまってるだろ」というようなことを書いているのを目にしたことがあった。それが気になったのは、自分が『遊星ひとつ』を「地球の詩」のコンサートで聴いた際、「なんかピッチがあるんだかないんだか分からない」と思った記憶があるからで、綺麗に鳴らすのは実際難しいのだろうと思う。

ではどうにもならないのか、というのがよく分からない。『遊星ひとつ』については甍による再演も聴いたような記憶が朧げにあり、そこでは音が聴けない印象はなかったので、適切な歌い方はあるのだろうと思う。

『だれもの探検』だが。

 

tooth-o.hatenablog.comこの演奏で聴くと、やはりもう一つ何の音がしてるかぴんと来ないところがある。楽譜の記載で約13分、このCDで15分ほどの短い曲だが、相当の練習と、耳の繊細さが必要なのだろうと思う。

ところで、この曲の楽譜の前書きでは、木島始の詩について「男同士の友情が底流して、潔い」と三善晃が書いている。

 

tooth-o.hatenablog.com男声合唱についていろいろと書いたが、そのような男声合唱と、この「男同士の友情」また『だれもの探検』という曲が求める技術と感覚との間にはかなり距離があるように感じる。そうしたことを考えた時、『だれもの探検』とは「男同士の友情」についての歌なのかと思う。そしてまたその困難さ、ある種の緊張感等について思うなら、例の「迷路」はやはり迷路のままであり、三善晃はそれが迷路であること自体を高校生たちに差し出したのだと考えたくなる。