『地球へのピクニック』(2)

 

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今回多数の演奏を聴いてみたのは、この曲のいくつかの部分についてどのように歌われているかを確認してみたかったからだった。具体的には

  • 29・30小節の下三声の「おまえのめはそらのあおをうつし」
  • 33・34・35小節の「そまるだろう」
  • 42小節~69小節「ここにいて」~「まかせよう」の部分
  • 116小節のソプラノの「なんどでも」

この内、3点目の部分は音楽の調子から言っても曲の中核の部分で、特別な書き方がされているのでこれ以上どう特別にすれば良いか分からない、ということはあるかも知れない。

ところで詩のその部分にある「遠いもの」だが、この詩中とは別に『地球へのバラード』をここまで経過した上での意味がある。「私が歌う理由」は「私」のものだが、それを伝えようとした相手はその伝わらなさのために「遠い」と言えるだろう。また「名づけられぬものの名」というのもそうだろう。『地球へのバラード』はそのような「遠いもの」を巡る物語だった。『地球へのピクニック』はその「遠いもの」について何を言っているだろうか。

ここにいてすべての遠いものを夢見よう

ここで潮干狩をしよう

あけがたの空の海から

小さなひとでをとつて来よう

原詩は各6行から成る3連でできている。この部分は第2連の4行目までになる。

「遠いもの」から調号がなくなり、ここから夢に入ることが楽譜の上で示されている。「潮干狩」は「小さなひとで」に対応している。夢の中では空が海となり、そこにあるひとでとはつまり星のことになる(明け方のことであればそれは明けの明星、ということになるだろう)。つまり、夢の中で星、すなわち「遠いもの」を手に入れる、という話になっている。

ここで2つのことが言えるように思う。まずそれは夢の中でしか叶わない、ということで、それは『私が歌う理由』の時点で確かめられている。もう一つはそれが「愛」に関係していること、「遠いものを夢見よう」と「わたし」が言うのは「おまえ」を愛するから、ということだ。

くどくなるが、「遠いもの」の問題は前提に「愛」があり、自身の問いの前提にある「愛」を自覚することが『地球へのバラード』の終曲としての『地球へのピクニック』の意味だろう。