どこで読んだのか思い出せないが、この組曲の詩が書かれた順序とちょうど逆に並んでいることに曲の完成後に気づいた、ということを萩原英彦自身が述べていた。述べられた内容も厳密に正しいかは確認していないが、このことには作曲者にとっては結果的にであるとしても、必然性のようなものはあったのだろうと考えている。
以前に触れたことのある第1曲の『一陣の強い風がぶどうの枯葉を吹きとばし』だが、この曲にはピアノの長い前奏がある。冷たく寂しく、緊張感に満ちたこの前奏は、共感を超えるような死の際の心象のように感じられる。この曲の合唱は楽譜の前書きにある「このような状況にあるとき、”ことば”は”いのち”と同格のものとなる」という言葉をそのまま示している。「白い予感」はそのまま存在している。それは、この後に来るはずの雪を見ることなく死ぬしかないためで、前奏のピアノはその先の、”ことば”さえない時を描く。
ここで、つまり詩人は雪を待っていた、という形で第2曲『ゆきんこが遠い国から』が続く。雪を待ち、しかし雪が降るよりも前に死ぬ、という状況が「白い予感」を存在させていた。童話のような詩は同じ形を3回繰り返し、曲もそれに応じた簡素な形式になっているが、これにより詩人の感情は遠隔化されている。第3曲『折れたバラ』の詩は逆に死ななければならない詩人自身を直截に表している。が、これもバラとして対象化されることにより距離が置かれる。このために萩原英彦の曲は、合唱が詩に心情を重ね合わせることを許さない。正しく美しく歌を響かせる先にだけ曲の姿が現れる。
死を直視せざるを得ない第3曲に対し、第4曲『小さな詩』は幾分軽やかだが、意味的には第1曲の問題が薄く重ねられる。詩は「さまよい出てしまった」ならばそれきり失われてしまうかも知れない。それは、先に死が見えている時には決定的な喪失となる。この曲に至ってようやく、「お話」としてであれ詩人の心情に聞き手が近づけるようになる。
そうして、第5曲『名も知らぬ異国の港町にて』は、死に向かう詩人に辛うじて共感を寄せ得る限界として置かれている。つまり、この組曲は語りようのない死の間際の心を聞き手の共感の届く領域にまで辿り着かせる道筋として成り立っている。