構想がどのようにして成立したかは想像することしかできないが、ともあれ詩に対して三善晃は舞台作品的な、劇的な場を考えることになった。あるいは、作品全体を一種のフィクションの形に設えた、と言えるかもしれない。
音楽を聴く時の意識は、まず音響に捕らわれ、しかし単なる音響の連鎖には関心が続かず何らかの構造を期待するようになる。この両睨みのような状態が、とりあえず自分にとっては、音楽作品への対し方の実態となっている。
例えば映画を見る時などは、また違った状態になっている。(面白ければ)ただその場面場面に没入し、構造の反復のといったことは考えもしない。それで何かが難しいということもなく、受け止められた範囲の内容で満足している。『縄文連禱』の序文で「舞台」ということを言うのは、聴き手がこちら側に近い意識で作品に接することを目論んでいたのではないだろうか。
そのように考えてみると、「謡詠」も単に変わった歌い方をするのとは別の意味になる。演奏を、音楽から劇的なものへ転換する働きと考えられる。いくつかの映像的な注釈、(イメージ=流れ星)や ”ささやき、風のように”、”火花” なども視覚性の強調だろう。
こうした劇性のような性質は、受け手の作品の複雑さに対する受け止め方や時間的な構成の感覚を変化させるが、もう一つ、この作品に関しての働きがある。先に「宇宙の琥珀」「宇宙の瑪瑙」を飲み込ませる、と書いたが、それは詩の中の言葉の関連性から、「きみたち」「わたしたち」という関係を了解することでもある。詩の言葉について分からない、意味不明、と言ってきたが、フィクション的な枠により、その「分からない」という時の基盤となる生活的な経験から離れて作品内部にある関係性や論理、感情などにより接近しやすくなる、ということがあるように思われる。
別の方面から付け加える。豊中混声合唱団の演奏が youtube で視聴できるのだが、
三善晃の演出プランに基づくものかは不明ながら、この動画では演奏に照明の変化や演奏者の動きが加えられているのが見られる。面白いのが靴音に対して案外神経質でないことで、視覚的な演出と引き換えに、この曲が演奏者と聴き手の双方に対していくらかの緩さを受け入れるものである可能性を考えさせられる。緩さ、というのは言い方を変えると緊張を強いないということで、それが作品の表現を柔軟に受け止められる心身の状態にもつながる。
こうして書いてきたのは、この作品の演奏に対する個人的な期待になる。流れ星を目の当たりにし、弾ける火花を見上げて演奏者と共に「わたしたち」として「縄文の花いつまでも」と願う、そのような演奏がこの曲にはあり得るのではないか。