今回久しぶりに聴くことのできた『縄文連禱』について。宗左近の詩による曲でもあり、昨年と限らず三善晃の作品を中心としたコンサートは幾つも企画されてきている中、この曲を各にする形も考えられそうなものだが、むしろ合唱団を主体にした中での目玉として扱われる傾向にあるようだ。2014年の東京混声合唱団は追悼の意味で三善晃の作品だけの演奏会だったようだが、youtube で聴ける豊中混声合唱団の演奏、沼尻竜典指揮の東京混声合唱団、今回の vocalconsort initium はそうした形のように思われる。
このような傾向があるとして、それが曲のどのような特徴によるものか、と考えてみた。まず単一楽章で演奏時間が約20分という大曲、難曲であること。曲が多様な要素を含み構成を見通しづらいこと。詩が難しいこと。
最初の点、改めて楽譜を見返すと確かにこれは力の入った作品で、特殊な演奏法なども織り込まれた大変な曲なのだが、ピアノを別にすれば演奏至難な曲とまでは感じない。ボリューム感自体は間違いのないことなので、一定の実力のある団体であれば、覚悟を決めればできる、が、覚悟が必要になる、そのような作品と考えられる。規模感と活動への負荷を考えると、演奏会の中で重い位置を与えるしかない、ということになるだろう。
そこで、後の方が問題になる。宗左近の言うことなど元からよく分からないところ、この詩は特に言葉数も多く、大まかな構造として最初の部分とそれと対称的な部分とその後、というのは見えるけれども、その対称性というのもなぜその言葉を対称的と思ったか分からない。最終的なメッセージとして「縄文の花いつまでも」があるのだが、これはいったい何を言っているのか。というわけで、演奏者は詩の中核部分を空白のまま扱うことになる。
曲の複雑さがここに加わる。詩の形態に見える対称性が曲の側では対称性として扱われていないので、「ゆらめいてくる宇宙の琥珀」の再現まで、全体構造の手掛かりがないまま聴き続けることになる。「縄文の花いつまでも」で盛り上がったところで、後にはどうしても散漫な印象が残る。
要するに『縄文連禱』は、腕利きが挑む高峰とも言い切れず、しかし負担感は大きく、それでいて作品の明確な像が得られにくい、「代表作と呼び得る」という特性だけが浮き上がった作品、というのが現在までの実情と思われる。2014年の東混は追悼というテーマがはっきりしている中で、テーマと干渉せずに演奏会をまとめる重みのある作品ということだっただろうし、単独で取り上げる場合は「代表作と呼び得る」というのはそれだけで意義として十分と言える。一方で個展のような形を考えた時にはただ集めるだけでなく三善晃の創作を見渡す選曲、三善晃の課題を穿つ選曲、と考えたくなるものであり(これ自体の問題もある。見渡すと言えるだけの何が分かっているのか、というような)、得体の知れない『縄文連禱』が主役のように居座っては選曲の意図が不明になる。このように見ると、『縄文連禱』の演奏のされ方はそれなりに自然な帰結なのだろう。