2024年5月31日 19:15~
- Soupir ( M. ラヴェル / C. ゴットヴァルト 詩: S. マラルメ)
- 嗟嘆(といき) (近藤譲 詩: S. マラルメ 訳詩: 上田敏)
- ささやきュビズム (成清翠)
- 3つの詩/死 (真鍋尚之 詩: J. アイヒェンドルフ、R.M. リルケ、大庭みな子)
- 寺山修司のテキストによるコンセプションⅠ (三宅悠太 詩 寺山修司)
- 縄文連禱 (三善晃 詩: 宗左近)
『縄文連禱』を演奏するというので聴きに行った。2人の指揮者の一方である柳嶋耕太氏については
tooth-o.hatenablog.comこちらの演奏会の印象があり、どのような演奏になるか期待感があった。
最初の『Soupir』、素晴らしい音がして「initium ってこんなに凄いの?」と驚いた。途中、口笛が入ってまた驚くような響きとなっていた。近藤譲の『嗟嘆』については、同じ詩に基づく2曲を音響面での性格を意識させる形で並べたと思うが、演奏の面でほんの僅か落ちる感があり、やや釣り合わなくなっていたと思う。
『ささやきュビズム』は息の音の中から声が現れる瞬間の緊張感や、声を発する位置の不意打ちされる感じが面白かった。曲としての盛り上がり自体は普通の合唱の方に寄せる形になって少々退屈という気もした。実際に演奏するとなると容易ならざるという印象はあるが、今回の演奏はそれをほとんど感じさせないものだった。
『3つの詩/死』はそれまでに比べると普段の合唱のコンサートで合唱曲を聴くのに近い聴き方になったと思う。笙がやはり息を吹き込んで音を出すものだからか、歌らしさのようなものが自然に発生するようになったのかも知れない。
『寺山修司のテキストによるコンセプションⅠ』はタイトル通りそれぞれのコンセプトを持つ5曲、ということだったのだが、寺山修司にはそのようなものを誘うような所があるのだろうか。5曲目の語りを除くと、そのコンセプトをそれほど面白く聴かせてもらえた気はしなかった。
『縄文連禱』について。まず、ここまで全般的に音響を意識させる曲で、集中して聴ける状態を作り上げていた。この点はプログラムの巧妙さと思う。ピアノは時に場を硬直させて聴き手の意識を逸らせてしまうことがあるが、小田裕之氏は聴く側を強張らせない演奏で、自然に曲に入っていくことができた。全体は精緻で自在な演奏で、こういうのが聴きたくて合唱を聴いてる、という気分になった。
満足感の大きい演奏会だった。今後の活動にも注目していきたい。