Point de Vue vol.17

2024年4月30日(火) 19:00~

東京文化会館小ホール

  • 歌い方と句切れのエチュード(金田望)
  • 抒情と移ろい -声に寄せて-(武澤陽介)
  • 虚空はるかに ー蓮の花・・・・(佐藤岳晶)
  • マドリガル新垣隆
  • カミングズの詩によるラブソング(森山智宏)
  • 《カルミナ》~3人の声とチェロ,ピアノのための~(鈴木輝昭)
  • 《四季に》~無伴奏混声合唱のための~(三善晃

このコンサートのシリーズは自分などにはありがたいもので、招待作品という位置づけで三善晃の作品を何度も演奏し、その動画も公開してくれている。演奏も素晴らしく、『シェーヌ』の沼沢淑音は録音で聴けるものとしては現状最も優れていると思うし、『ヴァイオリン・ソナタ』や『弦楽四重奏曲第2番』も良い。今回は『四季に』が聴けるということで、初めて直接聴きに行くことにした。

vol.17 となっている今回はサブタイトルが「SCHOLARS AQUARIUS を迎えて」となっており、室内合唱団 SCHOLARS AQUARIUS の歌手に楽器が加わるなどした室内楽編成の作品が演奏された。三善以外の6曲は新作で、今回が初演となっている。

その6曲については、『抒情と移ろい』『虚空はるかに』『カルミナ』は普段音楽を聴くのとそれほど変わらないスタンスで聴くことができ、『歌い方と句切れのエチュード』『マドリガル』『カミンズの詩によるラブソング』はテキストの扱いなど、聴く側が一歩引いて見なければならないところのある作品だった。前者は聴き手に没入を求め、後者は思考を要請する、というか。そして後者に当たる作品が最初に演奏されたことで、コンサートの全体が各曲の相対化を意識させるものになったと思う。

このことがやや不利に働いたと思うのが2番目に演奏された『抒情と移ろい』で、たとえば合唱曲のコンサートのようなところに挟まっていればこの曲は印象的な新曲、という位置づけになった可能性があるが、今回の配置では穏当な曲、くらいに感じてしまった。『虚空はるかに』も、主題の重さや響きを通じた作品の求心的な力は感じながら、そうした形の感動に乗っかってしまっていいのか、という意識が常に残ることになった。

その前後について言えば、最初の曲『歌い方と句切れのエチュード』は、何かやっているな、程度であまり印象がないのだが、何となく嫌味のない明るさが感じられて嫌いではないという気はした。後の『マドリガル』は変なところが都度都度挟み込んであって退屈しないのだが、その変さもたかが知れており、挟み込み方も見え透いていて総体としてはそう面白いものでもなかった。

『カミングズの詩によるラブソング』は最初に英詩の3つの日本語訳を3人の歌手が歌い出したところでがっかりしたのだが、上で区分した中では両者の間にあるような作品といった印象。『カルミナ』は普通といえば普通の音楽で、音の複雑さや響きの所に現代性がある、というところ。

『四季に』については別に触れたいと思うが、演奏は見事なもので、「このように聞こえるのか」ということが度々あった。この曲に限らず SCHOLARS AQUARIUS その他の演奏者は素晴らしかった。

 

「一瞬の望見」(1)

『遠方より無へ』の最初に載せられている、1970年のものとなているこの文章は、初出一覧に寄ればレコード『三善晃の音楽』のために書かれたもの。

最初に萩原朔太郎の「五月」の詩があるが、このことについては以前触れたことがある。

tooth-o.hatenablog.com

その前、文章の一番最初は次のように切り出される。

ときおりは、わずかな展望のきく場所に歩みかかる。一瞬の望見は、私に、私が余裕なく歩んでいたことをさとらせるにすぎないが。

「五月」を挟んで、「余裕なく」ということについての話が展開する。「余裕」と「迷う」「えらぶ」が、ここではほぼ同じ意味合いとして語られる。

余裕なく歩んで来た。十代の終わりから私は、ものを、あるいは生き方を、というべきであろうか、えらぶことができなくなった。

 

そうしてかくれ、心に棘の声を聴きながら、子供には由々しい背徳の時を、私は丹念に潰した。その快びを、私はえらんだ。ニ十歳ちかくまではそのように、迷うことができた。その快びの質感になじんでしまった。

「十代の終わり」「ニ十歳ちかく」と示された時点があり、その後から「えらぶ」「迷う」ということができなくなった、という。その時点が何なのか、触れたものがあるかは知らない。

「えらぶことができなくなった」ということについて。

たとえば生と死は、そのいずれかをえらぶことのできる二つの事柄ではなくなった。

あえて「五月」の後に、「たとえば」としてこのように書くのだが、30歳を前に自殺しようとしていたという話と合わせると、この「えらぶこと」のできなさは「選ぶまでもなく決まっている」というようなことではなさそうに思える。

この説明が、

ひとにぎりの縒から、一本がのこる。それを覚ることしか、私にはできない。

ということで、自覚的な選択のないまま選択肢が脱落し、脱落の経過と最後に残った選択肢に自分の意思や心情が残されている、という感じ方をしている。「欠落」と「乱丁の頁」もこれらに対応するだろう。

 

シャボン玉の割れる音

bungo618.hatenablog.com

三善晃の『シャボン玉』(『虹とリンゴ』)に関して、

シャボン玉が割れるような音がしたけどあれは詩のどこの部分なんだろう?

と上の記事で触れられているのは、詩の最終行、曲の中でも終盤の「まるで美しいシャボン玉のように」の部分だろう。ここは「各自、自由に歌い、クラスターをつくる」との指示により、アルトが「美しい」、ソプラノ・メゾソプラノが「シャボン玉」の言葉でそれぞれの音型を繰り返すようになっている。

実際、ここでは「シャボン玉が割れるような音」が聴こえる。その仕組みが「うつくしい」の母音が他の声に吸収されて ts、k、sh の子音が分離されるためらしいというところまでは一応は分析できる。それを作曲者が意図したのかと考えるのだが、『さまよえるエストニア人』の「蜜蜂の歌」を思い返すならこれもまた意図的と見ることができそうではある。

そうだとして、三善晃はなぜシャボン玉の割れる音を書いたのか。または、ここで「シャボン玉が割れる音だ」と聴く側が感じることはどのような働きをもつだろうか。

この場面が湧き出すような無数のシャボン玉の映像的な表現なのは分かるわけだが、そのことがこの「割れる音」によって明確になっている面はあるかも知れない。そこから「漂い出て高く昇っていくひとつのシャボン玉」が導き出されるので、重要といえば言えるか。また、シャボン玉はすぐ割れるものだと意識させる面があり、曲の終わりまでの緊張の持続をもたらしている。

ところで、虹の色はシャボン玉の表面に映っているのだった。

おお季節 その季節に虹が懸かっている

(初演時プログラムノート)

シャボン玉の割れやすさ脆さは、秋へとかかる虹の儚さへと三善晃の中で結ばれている。言葉としてであればこのことは分かるのだが、それを音として納得させられるか。「シャボン玉の割れる音」はそのための要素の一つだろう。

『魁響の譜』(日本フィルハーモニー交響楽団 第758回東京定期演奏会)

『魁響の譜』を演奏するというので、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴きに行った。

 

日本フィルハーモニー交響楽団 第758回東京定期演奏会

2024年3月23日 14:00

指揮 アレクサンダー・リープライヒ

ヴァイオリン 辻彩奈

 

オーケストラの演奏は聴きつけないので何とも言いづらいのだが、良い演奏だったと思う。特にシューマンの第1楽章の自在さが印象に残った。

雑な印象として、演奏された曲については明るさを感じた。それは『魁響の譜』も含めた話で、解説によれば岡山シンフォニーホールの開館記念演奏会のために書かれた曲であり、作曲の経緯からは自然なことではある。が、『祝典序曲』がタイトル通りの印象をもって聴かれてはいないことを思うと、この作品の性格についてはまた別に考える必要があるかも知れない。

今回『魁響の譜』を聴いて感じたのが、苛立ちや憂鬱さといった表情のないことだった。このような表情は、80年代半ば以前には三善晃の作品の重要な要素と見做され、おそらく聴く側はその裏に作曲家自身の姿を感じ取っていた。80年代の後半以降こうした表情が後退したことは、例えば『交聲詩 海』などを思い返せば分かるだろう。

また、この頃から機会音楽的な作品が増えている印象がある。合同演奏のための曲や地域に向けた作品が多数書かれており、オペラ作品として注目される『遠い帆』もそのような系統と見ることができる。1991年作曲の『魁響の譜』についても、やはりそうした中の1曲といえる。

CD『三善晃 交響四部作』のために書かれた文章「無言の風景」を思い出す。「三部作のとき、そこには私がいた」「四部作のときには、そのような私はいなかった。替わりに八月がそこにいた」と三善晃は書いた。

『魁響の譜』も、「私はいな」い音楽だろう。そこで替わりにいるのは作品を求めた人たちであり、三善晃はそうした具体的な人たちや機会に忠実な作品を書いた。90年代の作品の多くは委嘱者や委嘱の経緯と密接に結びつき、そこから広がりを得るまでには作品ごとの曲折があるように見える。

『大小』(上田真樹『そのあと』)

上田真樹の『そのあと』を練習することになり、今のところ一通りさらった段階となっている。

『そのあと』の楽譜の序文には「このところ、なんだか世の中がおかしなことになってきている。」とあり、その問題意識は特に2曲目『大小』と3曲目『十と百に寄せて』に示されている。

『大小』の詩の批判性は書かれた時期もありはっきりとしている。曲は馴染みやすいメロディーと印象的なダイナミクスをもち、つい歌いたくなるような調子となっている。楽譜は最初に付点のリズムを三連符として扱うよう指示があり、聴く上では風刺の軽さが出る一方、視覚的にはその付点リズムが全面的に使われていていかめしい印象がある。他の特徴として2・4拍の強調、終盤でのバスのD-Aの反復や半音で下降する音型などが目に付く。

半音の下降はまず低声に現われ、その後第一テノールにも現れる。これらは2拍単位で音が変化し、終盤では反行としての半音の上行から、四分音符での急速な下降につなげられる。共通の素材によりながら「ずり落ちるような状況の悪化」、「漂う不穏な空気」、「状況の切迫からの破局」といったことを描き出していると思われる。

こうして見たところ簡素に聞こえながらも非常に巧妙に作られているのだが、自分には本当にこれでいいのか、というような気分がある。「このところ、なんだか世の中がおかしなことになってきている。」と言って取り出すのが1960年代のアイロニーというのはおかしいのではないかと感じる。先に挙げた2・4拍やバスのD-Aは要するに「軍靴の足音」であり、そのような表現が戦争への批判となり得たのはせいぜい20世紀中のことではないか。

結局のところ、世の中に向けた批判意識が類型化して冷戦期の図式に帰着する、自分で言った「このところ」がどこかに行ってしまう、『大小』はそのような作品となっている。曲の洗練がこのような内容になってしまうところには、白けた気分にならざるを得ない。