しかし、果たされることのない願望は、もう、そのまま私の基質のようになってしまった。私そのものが、飢餓に似合ってしまった。そして飢餓の質は、「古典」から遠いところにいる。路の迷走を私は閲した。
ここの書き方は、内容を音に限定していないように見える。冒頭からの不吉な文章の続きとして、自殺することを思いながら死なないでいること、と読むことができそうであり、「古典」の語によってそれが音楽の話へと引き写される。
「古典」に関連して、ふと気づいたことがある。「古典」と、文章の中で鍵括弧を付けて書かれているのだが、対する「ロマン的なもの」は括弧が付けられていない。先走るが、括弧の付けられた言葉を拾っていくと、
「褶襞の声を聴く」
「精神の形」
「古典」
「もの」
「遭遇」
「歴史を、私という微細な粒のなかで、私なりに経てみなければならない」
「時」
「あれは『交響三章』の系列だね」
「歴史」
「その魚を、誰も釣れない」
これらの言葉は、「『古典』の体験」に関連するように見える。
ある自然の摂理に、はからずも出遇う。はからずも出遇ったことをさとる。それが「古典」の体験であろう。
を前回も引用したが、まず明らかに「遭遇」とはこのことを指している。「褶襞の声を聴く」は「精神の形」に結び付き、「精神の形」は形式を介して「古典」とつながる。「自然は『もの』の世界にあろうか」「『時』は『もの』の側にある」として、「もの」「時」と自然が連なっている。そして「歴史」「系列」は「時」に関連し、それが「魚」として、あるけれども「釣れない」ものとされている。
先の引用に戻ると、これは例えば「予感の小昏みにだけ、音をたしかめるようになった。」に対して、予感したことが果たされないことが当然のこととなった、というような意味合いになるだろう。
そして、私の愛は、拒絶されることで保証されている。それが、私の飢餓の質だ。
「予感」は「楽器たちが生むはずの音」への予感のことだった。一方、「私の愛」は「楽器たちが生むはずの音への逸脱した愛」のことを言っている。雑に言い換えれば、聴きたい音が聴こえないことで、その音を聴きたい願望が保証されている、という話になるだろうか。「聴きたい音」は「古典」に、「聴きたい願望」は「飢餓」に対応する。「動かない指」とピアノの話がここに関わってくる。