『ごびらっふの独白』(高嶋みどり『青いメッセージ』)

初めて『青いメッセージ』を聴いたのは高校生の頃で、特に終曲『ごびらっふの独白』については強い印象を受けた。と言いつつも言葉の分からない音楽を聴きなれない時分のことで、蛙語の部分など訳が分からないという気分でいた記憶がある。

この曲と限らず学生の頃は高嶋みどりを好んでおり、機会があれば多少は演奏会に聴きに行ったりもしたものだった。その後は、CD『誰かが時を・・・ 高嶋みどり作品集』が発売されたので時々は聴き返していたが、何故ということもなくしばらくの間気持ちが離れていた。久しぶりに『ごびらっふの独白』に限定していくつかの演奏を聴き、そのあたりの気分について考えてみた。

まず、とにかく感動してしまう。高嶋みどりの曲にはいつも物凄い高揚と圧倒的なカタルシスがある。

だが、『ごびらっふの独白』では特にだが、次にはその感動の安っぽさを感じてしまう。これは第一にリズムの軽さ、第二に「夢をみること。」などに見られる言葉の扱いの軽薄さによるものではないかと思う。「蛙」という、人間が相対化されてしまう観点が無効化されてしまい、ただの呑気な曲になってしまっている。

これが『サリム自伝』、ソンミ村の虐殺を主題とする詩と曲を前に置くことで解決されているかというと、その『サリム自伝』がやはり表現として安易に感じられ、言ってみれば両曲ともに「こんなものだろう」という印象になっている。

これが本当に楽曲の問題なのか、ということも考えた。学生団体の演奏動画を視聴したところで上の印象はむしろ固まっていったので、これは仕方がないのかと思ったが、一方では男声合唱の持つどこか甘えのような雰囲気の問題ではないかとも思えた。要は、分かりやすいスタイルに割合無反省に乗っかってしまうところがあるのではないか、ということだ。

今回比較的良い印象を持ったのがドンクサック合唱団という団体の演奏だった。それほど人数は多くないが声がしっかりしており、動画で聴く限り不足感はない。特に良いと感じたのが最終盤で、「おれの孤独」に届く虹を見上げる、といった演奏になっている。そこから、「おれの単簡な脳の組織は。/言わば即ち天である。」が発見として歌われる。これは指揮者がそのような素振りだからそう感じるという面はあるが、他の団体の演奏は「おれ」と「天」が当たり前のように直結しており、上に書いたように軽薄さや無反省ぶりとして感じられる。