『縄文連禱』について(2)

OMPや豊中混声の演奏なども聴き返しつつ、まだ『縄文土偶』のことを考えている。

当たり前のことに気付くのに長い年月がかかった、と思うのだが、詩の核心は「縄文の花 いつまでも」なのだから、この曲の目論見はその願いを聴き手に共感させること、さらにはその場限りであれ願わせることだろう。詩の長さ、言葉の多さやその構成もそのためにあると考えられるが、問題は「共感」をどのように仕掛けるかにある。宗左近の「縄文」はいきなり突き付けて理解されるとは思われず、およその説明を付けたとして得心がいくかというとそれも怪しい。歌い手が「縄文の花いつまでも」とどれほど共感的に歌い上げようとも聴く側には訳が分からず、その歌い手の共感というのもどの程度当てになるか不明とさえ言える。では、三善晃はどうしたか。

1993年の演奏会「地球の詩」のプログラムに寄せた三善晃の文章「水脈をたどるようにして」の中で、『縄文連禱』について次のように触れている。

九〇年、宗さんの書下ろしで《縄文連禱》。宇宙の琥珀、宇宙の瑪瑙という詩句と情動の円環が、どう交差するか、それが試練でした。

「詩句と情動の円環」は「詩句が情動を喚起し、情動が詩句を喚起する」くらいの意味と考えておくとして、詩の言葉には荒っぽく言えば「宇宙の琥珀」~「きみたち」~「光たち」、「宇宙の瑪瑙」~「わたしたち」~「黒い眠り」等のつながりがある。「縄文の花いつまでも」という願いは、これら2つの連鎖の交わるところで生まれる。つまり、「宇宙の琥珀」~「きみたち」と「宇宙の瑪瑙」~「わたしたち」を飲み込ませれば、「縄文の花いつまでも」の願いは聴く人の中に自然と発生するだろう、と期待できる。

(「試練」と言っているが、三善晃自身にとっての問題はおそらく、そもそもそんな交わりがあるのか? ということだっただろう。『詩篇』に関して三善晃は「声は、とどきようもない」と言っており、『縄文連禱』についても両者の交わりを結局は信じられない、という形で構想が頓挫する可能性があったのではないだろうか)

問題が「縄文」を飲み込ませることから「宇宙の琥珀」「宇宙の瑪瑙」を飲み込ませることに変わったとして、まずその違いは何かというと、「宇宙の琥珀」「宇宙の瑪瑙」から「縄文の花いつまでも」に至るのは、基本的に聴き手の意識の内側の出来事である、ということになる。これは、一部分であれ詩の内容を外部からの操作ではない形で捉えることになる。

一方、言葉が変わっても意味不明なのは変わらないのではないか? という問題は残っている。

『縄文連禱』について(1)

tooth-o.hatenablog.com

今回久しぶりに聴くことのできた『縄文連禱』について。宗左近の詩による曲でもあり、昨年と限らず三善晃の作品を中心としたコンサートは幾つも企画されてきている中、この曲を各にする形も考えられそうなものだが、むしろ合唱団を主体にした中での目玉として扱われる傾向にあるようだ。2014年の東京混声合唱団は追悼の意味で三善晃の作品だけの演奏会だったようだが、youtube で聴ける豊中混声合唱団の演奏、沼尻竜典指揮の東京混声合唱団、今回の vocalconsort initium はそうした形のように思われる。

このような傾向があるとして、それが曲のどのような特徴によるものか、と考えてみた。まず単一楽章で演奏時間が約20分という大曲、難曲であること。曲が多様な要素を含み構成を見通しづらいこと。詩が難しいこと。

最初の点、改めて楽譜を見返すと確かにこれは力の入った作品で、特殊な演奏法なども織り込まれた大変な曲なのだが、ピアノを別にすれば演奏至難な曲とまでは感じない。ボリューム感自体は間違いのないことなので、一定の実力のある団体であれば、覚悟を決めればできる、が、覚悟が必要になる、そのような作品と考えられる。規模感と活動への負荷を考えると、演奏会の中で重い位置を与えるしかない、ということになるだろう。

そこで、後の方が問題になる。宗左近の言うことなど元からよく分からないところ、この詩は特に言葉数も多く、大まかな構造として最初の部分とそれと対称的な部分とその後、というのは見えるけれども、その対称性というのもなぜその言葉を対称的と思ったか分からない。最終的なメッセージとして「縄文の花いつまでも」があるのだが、これはいったい何を言っているのか。というわけで、演奏者は詩の中核部分を空白のまま扱うことになる。

曲の複雑さがここに加わる。詩の形態に見える対称性が曲の側では対称性として扱われていないので、「ゆらめいてくる宇宙の琥珀」の再現まで、全体構造の手掛かりがないまま聴き続けることになる。「縄文の花いつまでも」で盛り上がったところで、後にはどうしても散漫な印象が残る。

要するに『縄文連禱』は、腕利きが挑む高峰とも言い切れず、しかし負担感は大きく、それでいて作品の明確な像が得られにくい、「代表作と呼び得る」という特性だけが浮き上がった作品、というのが現在までの実情と思われる。2014年の東混は追悼というテーマがはっきりしている中で、テーマと干渉せずに演奏会をまとめる重みのある作品ということだっただろうし、単独で取り上げる場合は「代表作と呼び得る」というのはそれだけで意義として十分と言える。一方で個展のような形を考えた時にはただ集めるだけでなく三善晃の創作を見渡す選曲、三善晃の課題を穿つ選曲、と考えたくなるものであり(これ自体の問題もある。見渡すと言えるだけの何が分かっているのか、というような)、得体の知れない『縄文連禱』が主役のように居座っては選曲の意図が不明になる。このように見ると、『縄文連禱』の演奏のされ方はそれなりに自然な帰結なのだろう。

vocalconsort initium ; 8th concert ──邦人合唱音楽の深遠

2024年5月31日 19:15~

豊洲シビックセンターホール

『縄文連禱』を演奏するというので聴きに行った。2人の指揮者の一方である柳嶋耕太氏については

tooth-o.hatenablog.comこちらの演奏会の印象があり、どのような演奏になるか期待感があった。

最初の『Soupir』、素晴らしい音がして「initium ってこんなに凄いの?」と驚いた。途中、口笛が入ってまた驚くような響きとなっていた。近藤譲の『嗟嘆』については、同じ詩に基づく2曲を音響面での性格を意識させる形で並べたと思うが、演奏の面でほんの僅か落ちる感があり、やや釣り合わなくなっていたと思う。

『ささやきュビズム』は息の音の中から声が現れる瞬間の緊張感や、声を発する位置の不意打ちされる感じが面白かった。曲としての盛り上がり自体は普通の合唱の方に寄せる形になって少々退屈という気もした。実際に演奏するとなると容易ならざるという印象はあるが、今回の演奏はそれをほとんど感じさせないものだった。

『3つの詩/死』はそれまでに比べると普段の合唱のコンサートで合唱曲を聴くのに近い聴き方になったと思う。笙がやはり息を吹き込んで音を出すものだからか、歌らしさのようなものが自然に発生するようになったのかも知れない。

寺山修司のテキストによるコンセプションⅠ』はタイトル通りそれぞれのコンセプトを持つ5曲、ということだったのだが、寺山修司にはそのようなものを誘うような所があるのだろうか。5曲目の語りを除くと、そのコンセプトをそれほど面白く聴かせてもらえた気はしなかった。

『縄文連禱』について。まず、ここまで全般的に音響を意識させる曲で、集中して聴ける状態を作り上げていた。この点はプログラムの巧妙さと思う。ピアノは時に場を硬直させて聴き手の意識を逸らせてしまうことがあるが、小田裕之氏は聴く側を強張らせない演奏で、自然に曲に入っていくことができた。全体は精緻で自在な演奏で、こういうのが聴きたくて合唱を聴いてる、という気分になった。

満足感の大きい演奏会だった。今後の活動にも注目していきたい。

「一瞬の望見」(4)

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しかし、果たされることのない願望は、もう、そのまま私の基質のようになってしまった。私そのものが、飢餓に似合ってしまった。そして飢餓の質は、「古典」から遠いところにいる。路の迷走を私は閲した。

ここの書き方は、内容を音に限定していないように見える。冒頭からの不吉な文章の続きとして、自殺することを思いながら死なないでいること、と読むことができそうであり、「古典」の語によってそれが音楽の話へと引き写される。

「古典」に関連して、ふと気づいたことがある。「古典」と、文章の中で鍵括弧を付けて書かれているのだが、対する「ロマン的なもの」は括弧が付けられていない。先走るが、括弧の付けられた言葉を拾っていくと、

「褶襞の声を聴く」

「精神の形」

「古典」

「もの」

「遭遇」

「歴史を、私という微細な粒のなかで、私なりに経てみなければならない」

「時」

「あれは『交響三章』の系列だね」

「歴史」

「その魚を、誰も釣れない」

これらの言葉は、「『古典』の体験」に関連するように見える。

ある自然の摂理に、はからずも出遇う。はからずも出遇ったことをさとる。それが「古典」の体験であろう。

を前回も引用したが、まず明らかに「遭遇」とはこのことを指している。「褶襞の声を聴く」は「精神の形」に結び付き、「精神の形」は形式を介して「古典」とつながる。「自然は『もの』の世界にあろうか」「『時』は『もの』の側にある」として、「もの」「時」と自然が連なっている。そして「歴史」「系列」は「時」に関連し、それが「魚」として、あるけれども「釣れない」ものとされている。

先の引用に戻ると、これは例えば「予感の小昏みにだけ、音をたしかめるようになった。」に対して、予感したことが果たされないことが当然のこととなった、というような意味合いになるだろう。

そして、私の愛は、拒絶されることで保証されている。それが、私の飢餓の質だ。

「予感」は「楽器たちが生むはずの音」への予感のことだった。一方、「私の愛」は「楽器たちが生むはずの音への逸脱した愛」のことを言っている。雑に言い換えれば、聴きたい音が聴こえないことで、その音を聴きたい願望が保証されている、という話になるだろうか。「聴きたい音」は「古典」に、「聴きたい願望」は「飢餓」に対応する。「動かない指」とピアノの話がここに関わってくる。

「一瞬の望見」(3)

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たとえば生と死は、そのいずれかをえらぶことのできる二つの事柄ではなくなった。

 

幼時、病上がりの日に、自由学園校舎裏で、老齢のロバの脚元にしゃがんでいた。そうしてかくれ、心に刺の声を聴きながら、子供には由々しい背徳の時を、私は丹念に潰した。その悦びを、私はえらんだ。ニ十歳ちかくまではそのように、迷うことができた。そうして、その悦びの質感になじんでしまった。

 

かつて、死も実質だった。いまは、それも形骸となった。

話が遡るが、「死」について。3箇所引用した3番目、「死」が実質であるというのは、1番目の言い方からするならば、「生と死がそのいずれかを選ぶことのできる二つの事柄である」ということだろう。そのように言う「死」というのはつまり自殺なのだが、要するに意志的な選択としての死のことを「実質」と言っている。

2番目の文章は何を言っているのだろうか。この話がここに挟まれる意味を考える内に、「ニ十歳ちかくまで」の「刺の声」とは、「まだ死なないのか」ということだったのではないかと思えてきた。つまり、「死なないのか」という「刺の声」を聴きながら生き続ける「背徳の時」を潰す悦びに馴染む内に「ニ十歳ちかく」に至ってしまった、という経過を言おうとしているのではないだろうか。

 

前回の続きでは、「古典」という話が現れる。これはソナタソナタ形式から続く話と見られる。

ソナタに精神なんかありはしない。あるのは形式だけだ。そして形式は精神の形をしている。精神はそれを、アプリオリに承認している。芸術の形式と、それを完成した人間たちのあいだには、そのような自明な関係があった。

「一瞬の望見」では「承認している」までの引用になっているが、これは引用元の、『弦楽四重奏曲第1番』の解説文に書かれている。要するに「ソナタ形式は、ソナタ形式を完成させた人間たちの精神の形をしている」と言っており、そこから次には自分自身の「精神の形」をした「形式」を求める、という形に話が展開する。

それだけが、「精神の形」をなぞるはずだった。

「逸脱した愛」が楽器たちが生むはずの音を予感の小昏みにたしかめる、その感取者が「精神の形をなぞる」。その「精神の形」を通じて、

精神の形をして、私の「古典」は近くにいる、と思った。

「形式」と「古典」が結び付けられている。「精神の形」を求めることで「古典」に至る、という経路が想定されているように読める。

一方、その「古典」について、

ある自然の摂理に、はからずも出遇う。はからずも出遇ったことをさとる。それが「古典」の体験であろう。

としており、この次の田中希代子のピアノに関する文章は「古典の体験」の例示として引用されていると見られる。

この先が、よく取り上げられる「ロマン的なるもの」へと繋がっていくが、この言葉も「古典」との関係で現れてくる。