CANTUS ANIMAE 第28回演奏会 祈りのかたち vol.2 三善晃作品展 ―戦争と・・・人間らしさと・・・海と・・・―(2)

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一度トウキョウ・カンタートで『王孫不帰』『オデコのこいつ』『レクイエム』を並べることをしており、自分が聴くのは抜粋ながら今回が2度目になる。当時もそのことにそれほど感心はせず、とはいえ滅多にない機会なので良しとしておく、といった気分でいた。今回は、曲目を見た段階でいくらか白けるような気持ちがあった。

書いてみると、三曲は、はからずも、私個人の小さな歴史がたどり、なぞってきたある一つの情感に添っているのだった。

『遠方より無へ』の『オデコのこいつ』の項にあるこの文が、3曲を揃える根拠になっている訳だが、3曲のつながりが三善晃にとっても事後的なものであることも伺える。それぞれの曲は相互に関係なく生み出されたのであり、「ある一つの情感」は、まず1曲ごとをそれ自体として成り立たせ、その先に見出し受け止める(あるいは単に見当たらない、ということも含めて)ものだろう。そもそも迂遠であり、あるともないともつかないものを感覚させるという困難な話なのだ。実際に行われるのは「三善先生がそのようにおっしゃっておられるので」3曲をぽんと並べ、「ある一つの情感」の所に「反戦」というラベルを貼って済ませることでしかないので、このような選曲には怪しむ気持ちが生じる。

演奏困難な曲でそこまで届かなかったというのは止むを得ないとして、今回は抜粋なので、各曲の核心を捉えなければならないはずだった。『オデコのこいつ』はストーリー仕立てでポイントは決まっているが、『王孫不帰』『レクイエム』についてはそれを取り違えていたと考える。つまり今回も揃えただけでそれ以上のことではなかった。

CANTUS ANIMAE 第28回演奏会 祈りのかたち vol.2 三善晃作品展 ―戦争と・・・人間らしさと・・・海と・・・―(1)

2024年5月12日 14:30~

第一生命ホール

 

  • 男声合唱のための「王孫不帰」より Ⅰ(男声)
  • こどものための合唱組曲「オデコのこいつ」より ゆめ(女声)
  • 「レクィエム」[ピアノ・リダクション版]より Ⅲ
  • 混声合唱のための「黒人霊歌集」より Joshua fit the Battle of Jericho
  • 混声合唱とピアノのための「動物詩集」より ひとこぶらくだのブルース
  • 混声合唱とピアノのための「その日 ーAugust 6ー 」
  • 混声合唱とギターのための組曲「クレーの絵本 第1集」より 黄色い鳥のいる風景
  • こどものピアノ小品集「海の日記帳」より 波のアラベスク (ピアノ独奏:平林 知子)
  • 混声合唱曲「三つの海の歌」より マリン・スノー幻想
  • ラ・メール(女声)
  • 混声合唱と2台のピアノのための「交聲詩 海」

3つのテーマにより三善晃の作品を集めたプログラム。

第1部では、『王孫不帰』と『レクイエム』は消化しきれていない印象。『ゆめ』は表情の幅が広く良い演奏だった。

第2部は全般に『レクイエム』の負荷が影響していたように思う。おそらく声が思うように鳴らず、音がまとまらない印象が残った。『Joshua fit the Battle of Jericho』はリズムが鈍重に感じられ、これは『レクイエム』の中間部でも感じた。『ひとこぶらくだのブルース』と『黄色い鳥のいる風景』は悪くない演奏だった。『その日-August 6-』はやや荒く、第2部分のブルースの表現がはっきりとしなかった。演奏から離れるが、この曲のパンフレットの解説は、直接の体験者でない人間の歌であるという当然でありながら意識されている印象のない点に触れており、意義のある文章だったと思う。

第3部、ピアノ独奏の『波のアラベスク』は過剰に構えることがなく、聴き手に滑らかに入ってくる印象の演奏。『マリン・スノー幻想』が問題で、美しい演奏だったがそもそも楽譜は Allegro となっており、今回の演奏は自分の感覚としてはあり得ないもの。メトロノームの目安の数字を教条的に受け入れるのでなければこんなことにはならない。『ラ・メール』は良い演奏だった。今回は女声合唱による2曲が表情の豊かな演奏になっていたと思う。『交聲詩 海』は、この曲に対する「こうあってほしい」というものをかなり叶えてもらった気がする。特に〔Ⅱ〕〔Ⅲ〕が圧倒的だった。

「一瞬の望見」(2)

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「感性はいつも、馴れ合いそうで危険だった」と「共犯の巧みな結託を怖れ」はおおよそ同じ意味だろう。「看視するもの」が、「馴れ合い」「共犯」の対象なのか、それとも自分の「馴れ合い」「共犯」を「看視するもの」ということか、上手く読み取れない。

「その日の不充足だけが糧であるようにはからった」、結果が見通せる選択を排除する、ということだろうか。予期しないことだけが残されることになるのだから、「定式をもった一つの全体が形成されるようには、日々の作業を営めなかった」となるのだろう。「解放される時間」は、先に出てきた「背徳の時」を受けていると取れる。

この後に、よく知られた「ソナタに精神なんかありはしない」が引用される。ここで言うのは、「楽器たちが生むはずの音」がソナタの先にはない、ということだろう。「かつて、死も実質だった。いまは、それも形骸となった。」の「形骸」に「形式」が対応する。ここでの「死」を、以前は自殺しようとした話と結び付けて考えていたが、むしろ「十代の終わり」とつなげる方が適切と思うようになった。通じて、形式が「逸脱した愛」に応えないことを言っており、そのために「愛は、予感の小昏みにだけ、音をたしかめるようになった。」となる。

楽器たちが生む「はずの」音、という言い方には、実際には生まれない、という含みがある。それが「いま聴こえず、いま見えないもの」と言い換えられ、『白く』についての文章につながる。

左川ちかの詩に、不思議な絶望がある。失った声、向こう側の音、見えない花、そして、もう近くに居ない夏。

また、「うごかない指」とも結び付けられる(指の動かない事情については知らない。演奏会『地球の詩』に寄せた文章には右腕が動かなくなった話が書かれている)。つまり、「指が動けば鳴らせるはずの音」も「いま聴こえないもの」であり、さらにはそれが「いま聴こえないもの」であるために指が「うごかないでいる」としている。そしておそらく、「指が動けば鳴らせるはずの音」を鳴らせないために、その音を鳴らした先を見通すことができない。これはまた「定式をもった一つの全体が形成されるようには、日々の作業を営めなかった」へと翻る。「うごかない指」の言及自体については、一種の比喩または例示のようなもので、「『精神の形』をなぞる」ための、「指が動かないから鳴らせない」というのに近いほどの「いま聴こえないもの」の実感、という事だろうと思う。

東京六大学混声合唱連盟 第66回定期演奏会

2024年5月4日 16:00~

東京芸術劇場 コンサートホール

 

2日続けて4時間かかる演奏会を聴いて疲れてしまった。新型コロナの関係でダメージの残る中頑張っていたが、最後に『時代』を聴かされたので大減点。

慶應義塾大学混声合唱団楽友会

西村朗の『そよぐ幻影』。昨年亡くなった作曲家を取り上げるのはプロの指揮者として学生にきちんと向き合った姿勢と思う。人数が少ないなりに団としてしっかりとトレーニングされ、立派な演奏。

法政大学アカデミー合唱団

発声面でやや非力で心配になった。曲作りの面では、学生指揮者ながら決してやさしくない曲をきちんと作り込んでいたと思う。

青山学院大学グリーンハーモニー合唱団

ポピュラーの編曲物は基本的に好まないのだが、このステージは悪くなかった。歌い回しの押さえて欲しいポイントは押さえ、歌い手の自発性も引き出しながら、全体的には元歌と張り合わず元歌の影のような印象。

早稲田大学混声合唱

Ola Gjeilo を取り上げたことで、コンサート全体の選曲の幅を作り出していたと思う。細部の丁寧さが印象的だった。

東京大学柏葉会合唱団

『かなでるからだ』は特に面白い曲とは思わなかったが、合唱団の性能を表現できる作品ではあった。今回も団としての力は示したと思う。

明治大学混声合唱

やや表現力が減退した印象。明混には実は音楽の本流という面もあるので頑張って欲しい。

合同演奏

『漠とした輝きの欠片』の混声版委嘱初演とのこと。相澤直人は合同演奏と思えないほどしっかりと作り込んでいたが、そもそも百何十人で聴きたい曲かというとあまりそうは思わなかった。さらっと編曲版を出すのは編成に必然性がないということではないのかとも思う。また、これは曲の性質か演奏の問題か分からないが、人数による規模感をあまり感じなかった。

Tokyo Cantat 2024 合唱音楽の生誕の季(とき)~「水のいのち」から「新作」へ

2024年5月3日 17:00~

すみだトリフォニーホール 大ホール

新実徳英の進行で、昨年亡くなった西村朗の追悼という面のある演奏会。最初に黙祷を行った。

水のいのち』では普段思う「髙田三郎らしさ」とは異なる方向からこの曲の思いがけない表情を聴かされた。『幼年連祷』も、聴きなれたというか聴き飽きたと思っていた曲に対して、こんな凄い音が鳴っていたのかと思い知らされる演奏。『追分節考』は女声の鳴らす和音のクリアさが素晴らしかった。

ここまでが第1部、次の4曲が第2部で八ヶ岳ミュージックセミナーの委嘱作品とのこと。これらも大変レベルの高い演奏だったのだが、並べられると作曲家という人たちのナイーブさばかりが印象に残ってしまった。

第3部、寺島陸也は「永訣の朝」が中心だったのだが詩で泣かされる部分があり、その方向の延長は何をしても蛇足の感があった。その点西村朗は上手くやっていたのだなと思った。『敦盛』はその西村の作品だったが、響きの複雑さの割にさしたる内容はないという印象で、藤井宏樹はあまり相性が良くなかったのではないか。最後はコンサートのタイトル通りの新作だったが、正直なところいつになったら面白くなるのだろうと思っている内に終わってしまった。

ともあれ、これだけの曲が全て高水準の演奏で揃うという、想像を絶するような演奏会だった。新しい合唱作品がどのようにして生まれてきたかという企画の意図も良かった。