『王孫不帰』のことを少し

法政大学アリオンコールのサイト( http://arionchor.com/history/cn47/pg801.html )には、『王孫不帰』について三善晃の書いた文章に加えて詩の解説が載せられている。「住の江」と「太郎」から浦島太郎が導き出されるのは調べてみると納得のいくところで、「草履がぬいであつたとさ」の緩い調子とも噛み合っている。「丁東」を木を樵る音としている点も、三善晃が楽譜の前書きに書いたこととは違っているが、曲中での表現は対応している。

Voces Veritas が公開している解説( http://voces-veritas.com/archive/v/article/131son1.html )も詳しく、興味深い。初めに置かれている「王孫遊兮不歸 春草生兮萋萋」 について「後世の漢詩で広くそのモチーフを使用されており」との指摘があったので探してみると、すぐにいくつかの用例が見つかった。目にした説明では「王孫」「帰」「草」というのがセットということで、であれば『王孫不帰』の「若菜」「若草」もこの枠組みだろう。

この両者、それにやはりVoces Veritas の解説で触れている杜甫の『春望』も含めて、詩は非常に遠隔的な表現になっている。三善晃が詩について

詩は、丁、はたり、という音声だけが聴きとれる静謐の深所に、哀感の像を沈ませる。

さらに

古話に託され、その鋭利な「問い」が私たちの心に悲痛な感情の呼応を許すのは、あくまでも、その清冽なポエジーのなかでである。(いずれも『遠方より無へ』)

と書いているが、三善晃の『王孫不帰』はもうほとんど結論ありきで歌い、聴くものとなってしまっていて、この間合いを表現する演奏には行き当たったことがない。演奏の難しさにも関わらず意外に歌われる機会の多い曲だが、まだ十分には表現されていないように思える。