『青春』(野田暉行)

昔はヴィクターから出ていた合唱曲のシリーズが近所の図書館に多数あり、野田暉行のCDもその中にあったので、一応聴いたことはあった。当時は野田暉行の名前に思うところもなかったが、多少印象に残るくらいには聴いたのだろう。

当時は、あまり好きでないなと思ったきりとなり、今回の清水敬一還暦記念演奏会で聴いてもやはり同じように思ったのだが、それは要するに歌詞が嫌いなのだった。

特に合唱曲では、総合的、全体的なものを求める気持ちが漠然とあり、偏った見解や感情を強いられる気がすると距離を置きたくなってしまう。『青春』を嫌う気分もそのあたりに起因するような気がする。

ともあれ今回久しぶりに野田暉行の『青春』を聴いたのだが、表現の幅広さに驚いた。激しい感情を、歌い手自身が激することを要さずに受け止める楽曲の大きさが、強く印象に残った。この曲に歌われるのは所詮は若者の個人的な苦しみであって、それを大げさに歌ったところでその通り何を大げさな、と思って終わるのが通常ではないかと思う。が、それがこの曲では充実した、豊かな表現として成立している。

なぜそのようなことがあり得たのか、と考えてみると、それはこの歌詞に理由があると思える。

演奏会のプログラムに作曲者が文章を寄せており、そこで作曲者は

この曲では一人の青年を追って、貧しさ故の愛の破局、労働、友人の死、自暴自棄、母への思い、といった軌跡が描かれる。

とこの曲の内容についてまとめている。この文章では触れられてはいなかったが、この5つはその公害や都市と地方など背景に問題を抱えた社会が配置され、自身と社会の相克、といった構図を持っている。放送作家らしい目配せのいやらしさ、という気もするが、この背景と構図が、音楽の大らかさを可能にしたのだろう。一方で時代が変わればこのような背景も変化するのだから、作曲者が

しかし近年、若い人たちにこういった感情を理解してもらうのは難しいことであり、練習上の一番の問題だとも聞いている。時代の推移だろうか。

と書いても「その通りです」と言うよりないだろう。『わかれ』など、「愛さえあればなんにもいらない」と言い得たのは社会を全否定する視点に立つことのできた特殊な時代の故でしかなかったのではないか、と思う。